川瀬優子/『生きてこそ』

 

略歴
1970年生まれ。OL生活経験後、現在は産業カウンセラーとして自営中。

私にとっては2度目の出席となる、第4回の院内集会での事。私の左斜め前方に座っていた70代だと言うご婦人が「自分は身体も弱くて何の役にも立たないが、どうか何かに使って欲しい」といった趣旨のことを、切々と訴えていた。でも、その言葉の陰に「誰かの手を必要とする厄介者の自分は一日も早く居なくなったほうが良い」とでも思っているかのような響きがあった。その約ひと月後、行動隊の事務所にまるで自殺志願でもするようにして、登録希望の電話をして来る20代の若者が多いという話を聞いた。実際私も、見るからに『生きづらさ』を抱えた表情で「自分なんか…」と語る若い女性と一緒に活動した日もある。

退役した60歳以上の技術者・技能者が、放射線量の高い場所で自らの身を挺して働く、という福島原発行動隊の趣旨が、こうした犠牲となることで役立ちたいと考える人達を刺激するのだろう。利益優先の競争社会である現代日本において、老いて素早さや体力や判断力が低下した人達や、若くても大多数の要求水準に合わせられない人達、病気や障害やその他諸々の理由から『規格外』と見なされた人達は、時間あたりの作業効率の悪さから、企業はよほどでなければ雇用を避ける。また、そうした働きたくても働けない人を支える家族は、理解は示したとしても、本当は何らかの収入を得て負担を減らして欲しいのが実情だ。居場所の無さに押し潰されそうな人々は、60代以上の人々が自ら立ち上がった行動隊の姿に、人生最後の希望と『生きる意味』を見出したのかも知れない。

だが、ちょっと考えて欲しい。『生きること』そのものに意味は無い。誰のものでもない自分自身の人生をどう生きるかを、追求することにこそ意味がある。「死んで役立つ」などというのは思い違いで、「役立つ為にはどうしたらいいのか」日々試行錯誤を重ねる人を世の中は求めている。『死』は単なる『死』でしかなく、理解しない者や評価しない者達が、誰かの死に秘められた想いを察して感謝したり涙したりすることは無いだろう。死を美化して考えてはいけない。『役立てる』というのは『無駄にしない』ということだ。「自分も何かの役に立ちたい」と願い、福島原発行動隊に関心を向けた全ての人達は、自らを役立てる為に、まず自分の命も心も身体も決して無駄にしたり、粗末に扱ったりしないで欲しい。たとえ余命が短いとしてもだ。様々な人や物を大量に使い捨てにしてきた競争社会のやり方のほうが間違っているし限界を迎えたのだということを、私達皆で手をつないで一緒に体現する為に。