池田祥子/1945年8月9日、もし小倉だったら・・・

 

8月9日、原爆投下の当初の目標は小倉。それが急遽長崎に変えられたのは、その日、小倉の上空が曇っていたとか、製鉄工場の煙で視界がよくなかったとか、言われています。
しかし、最近になって、「実は撮影部隊の出発が遅れたので、間に合うように急遽長崎に変更した」という郷土史家の研究と見解も聞く機会がありました。

昔、長崎の原爆記念館に行った時、B29が南の方から小倉の上空までやってきて、いきなり左(西)に急旋回して長崎へ向かっている航空軌跡が展示されていました。それを見た時、私は改めて運命の偶然とその冷徹さに愕然としました。2つ目の原爆は、変更の理由は未だ不明のままですが、小倉ではなく長崎に落とされたのは事実なのです。そして、もし、予定通り小倉に落とされていたら、私は2歳のままこの世からいなくなっていたはずです。狙われた陸軍の銃器工場は、小倉の市内。私の家もその工場からさほど遠くない所でしたし、むしろ市内の中央の近くだったからです。

広島や長崎の原爆の記録(誰がどのように撮影し集めたものなのか・・・)を見たのは、小学校4年生の時。近所の友達が「見せてあげるから、うちにおいで」と誘ってくれました。「アサヒグラフ」の特別号だったのでしょうか。一面の瓦礫の光景と、被曝の人、人、人の白黒写真でした。イヤー気持ち悪い!とか、もう見たくない!とか、大きな声を上げた記憶はありません。二人とも、無言、いえ、言葉が出なかったのかもしれません。ただ黙って、一枚、一枚、残らず見ていました。

これが原爆・ピカドン。こういうものを創り、そして人間に向けて落とす、ということが、「お話」ではなく事実として起こったということ、・・・小学4年生にとって、それは言葉にもならない衝撃として、目に焼きついたのでした。
私とこの原爆との関わりは、からだへの具体的な「被爆」ではありませんでしたから、意識の中で、遠くなったり近くなったりしていました。けれど、意識の核にしっかり印づけられていました(と、2011年3・11まで思っていました)。

高校では演劇部に入りました。2年生の時、これはまったくの偶然ですが、広島の原爆が落とされた「8時15分」の瞬間を切り取ったお芝居「ヒロシマ」をみんなで演じました。ヒロコ、シマコ、ナガコ、サキコという女の子の中の、ハンカチを探し続けている「サキコ」が私の役でした。これは、舞台装置、照明を担当してくれた男子部員の下働きのお蔭もあって、福岡県大会で1位を受賞しました。1959年のことです。政治的にざわついていた時代の後押しもあったのでしょうか。

大学入学は1961年。60年安保闘争が終息させられていた後でした。それでも池袋の駅頭で「ソヴィエト核実験反対」の署名をしている学生の前で、当たり前の顔をして署名をしました。ところが、それを見ていた上級生が慌てて、私を喫茶店に連れて行き、いわゆるオルグをしたのです。「あの署名をしている人たちはトロツキストで、ソヴィエトを
赤い帝国主義と見なしている。ソヴィエトの核実験とアメリカの核実験を同列に見るなんて、明らかに間違っている!」だから、これからはあのような署名は絶対にしないように、と諭されました。地方からポッと出て来た政治オンチの大学1年生でしたが、でも私は、どの国が行おうと、どのようなイデオロギーであろうと、核実験には反対だ、とそこは頑固に思いました。

そして、たまたま入部したサークル(セツルメント)が政治色濃厚だったこともあって、やがてそのサークルの関わる政治セクトに参加しました。その頃「構造改革派」といわれた政治グループのうちの一派でした。1960年代半ば、日本共産党に反対するいわゆる「新左翼」は、いずれも過激に、暴力化の傾向にむしろ拍車がかかっていました。その中にあって私の関わったセクトは「意気地なし」「日和見主義」と批判されていました。

しかし、その当時、サークル部員の一方の東京教育大学の学長が朝永振一郎。彼が日本のノーベル科学賞受賞の湯川秀樹と共に、1957年のカナダでのパグウオッシュ会議に参加し、次いで日本パグウオッシュ会議を立ち上げていました。それは、1955年7月になされた世界的な哲学者バートランド・ラッセルとアインシュタインの核兵器廃絶の共同宣言に共鳴し賛同する世界の科学者たちの運動でした。
私のセクトも、この日本パグウオッシュ会議が1962年、第1回科学者京都会議を開くというので、大いに賛同し、ビラをたくさん撒いて宣伝もしました。
私にすれば、「核兵器廃絶」に向けて世界を一歩でも動かすこと、そのために世界的な科学者の権威と力を結集することは、疑う余地のない緊急の必須課題だと思われました。

しかし、現実には、普通の大学生にはほとんど理解されませんでした。ラッセル、アインシュタインはいうまでもなく、湯川秀樹、朝永振一郎も「偉すぎる」人たちだったのかもしれません。そして、その頃はまだ「核兵器」に焦点が当てられていました。今から思えば、1957年、日本でもすでに第1号の原子炉が始動しはじめ、やがて1966年には、日本の初めての原子力発電所が営業を始めているのです。「核の平和利用」と銘打って喧伝されてくる「原子力発電」に対する警戒は、1979年アメリカのスリーマイル島原発事故をスルーして、1986年のソ連チェルノブイリ原発の大事故に至るまで、本気ではなかったと思います。さらに、自分で「忸怩たる思い」にかられるのは、原子力発電に対する反発も、気づいて見れば多くの原子力発電所が機動し始めている既成事実を前にして、いつしか萎えてしまい、そして、「不本意に」あるいは「不機嫌に」ではあれ、現代風電気消費生活を送り続けてきたことです。
もう一度、手遅れになる前に、あの、私の中の「小倉の2歳の女の子」を呼び醒まさなければ、と思っているのです。