福島原発事故被災地の現況-ジャーナリストの目から

 

以下は、福島原発行動隊員の安藤博氏が2012年7月21(土)に大阪で行った講演の概要です。

大阪集会の模様

初めにお断りしておきます、「福島原発事故被災地の現況」といっても被災地全域を十分な時間をかけて見た経験に基づき総括的なお話しするというわけでは、全くありません。2011/3/11の大震災以来5、6回、被災地を訪れて行った支援活動などで得られた断片的な印象をつなぎ合わせた雑感に過ぎません。

「ジャーナリストの目から」という副題をこの講演会の幹事、中川吉基さんにつけていただきました。なんだかもったいぶった感じですが、「ジャーナリスティックな話」というのは、ちょっと危ない際物的なところがあるということでもあるのです。皆さんもご存じの「犬がひとに噛みついてもニュースにならない、ひとが犬を噛んだらニュースになる」ということで、「被災地の現況」を伝えるについても、新奇なことを拾い集める、お話しになるように仕立て上げるという作為を免れないきらいもあるでしょう。

 1.福島はいま

「帰りたくても帰れない」

つい一ヶ月前、台風直下の6月22日、<福島原発行動隊>(SVCF)の塩谷亘弘・副理事長など十人ほどで、東電福島第一原子力発電所(F1)の南約17キロの避難区域に入り、さらに同町から約30分のFI正門近く、大熊町など人が住めなくなっている高度汚染地域を実見し放射線量の計測をしてきました。避難家族の一時帰宅に同行し、間もなく同町が避難区域解除されるのに備え、地震被害を受けているそのお宅の片付けや除染等のお手伝いをするという名目でした。

避難区域内への立ち入りの関門になっている道の駅で防護服などを渡され、10人乗りのワンボックスカーに積み込んだ大型比例計数管で線量値を継続して記録していきました。

警戒区域内作業。ミニバン内で線量測定

避難区域内の街路は、ひと気、車の通りはほとんどなく、黄色信号だけが空しく点滅しています。留守宅を荒らす盗難者を警戒するパトカーをときおり見かけます。コンビニのほとんどは商品を盗まれてしまっているとのことです。被災者を葬った真新しい墓石のお墓が一かたまり(写真)。車内から皆で手を合わせました。

F1正門直近ではなく、5キロほど離れたところで、車内なのに30.5µ㏜/hというとてつもない高線量を記録しました。

異常な高線量

実際に計測に当たった進士国広さん(関西電子社長)は、後になっても「夢にまで見る」とのこと。SVCFの現地メンバーによれば、「何か危険物が落下したあとではないかと言われていたりする」のだそうです。

こうした地域には、二度と住民が戻って暮らすことは出来ないでしょう。「国破れて山河あり」で、ここにも山河は残っています。しかし、原発事故が残した山河は、ひとの暮らしを許さない広大な真空地帯であることを痛切に感じました。

今回の活動でSVCFが主要な目的としていたのは、避難区域が解除されて避難家族が元の家に戻るのに備え、モニタリングと必要な場合には除染、並びに家屋内の整理をおこなうことでした。即ち、この4月に避難区域解除となった川内村の帰村支援事業にSVCFが参加するためのパイロット作業として、今回の行動を位置付けていました。

しかし留守宅の破損状況からして、避難区域解除となっても、同行した避難家族は直ちに帰宅することは出来ないことがわかりました。したがって6月22日の作業は、実際のところモニタリングだけで、除染はもちろん、住宅内の片付け作業等には及んでいません。「川内村」に直結するパイロット作業には至らなかったわけです。

避難区域解除が進んでいくが

まだ寒さの残る今年3月末、いわき市久之浜の知的障害者施設<岬学園>に行った際に、同市に避難してきている川内村の避難家族に対して、4月にこの村が避難区域解除されるのに備え帰村方針を説明する会がありました。よい機会なので、塩谷さんや家森健さん(SVCF監事)らとこれに出てみました。避難住宅の集会所にやってきた村長、助役などと環境省など国の役人がこもごもに「いよいよ帰れますよ」と話すのですが、肝心の避難村民たちには帰村にはやりたっているという様子がありません。

「一年余住まないでいる家は、避難区域を解除されたって、とてもすぐには戻れるものじゃない」というひと。農業者は、「住むところの放射能が心配なくなっても、山から流れてくる農業用水は相当汚染されているだろうから、元のように耕作を始めることはできまい」と不安を訴えます。商店主は「みんなが戻ってこなければ、商売にならない」と。

避難家族に支給されている月額10万円の慰謝料が、帰村するかどうかの判断に微妙に関わっていることも分かりました。元の家に戻ればこの10万円はもらえなくなるわけですが、仕事を失い現金収入を閉ざされている被災者にとって、それはかなり痛いことでしょう。

結局、帰村を急ぐのは、老い先短く、放射能汚染を心配したりするまでもない高齢者に限られるかもしれません。

 「おばちゃん、福島生まれのわたし、お嫁にいけるかな?」

NHKテレビの「福島原発事故被災地一年後」特集で、たしか飯舘村のことでしたが、この村から避難して暮らしている女性が「決して村には帰らない、娘が『あのひと、飯館出身だよ』って、後ろ指をさされるような目にあうことのないようにしたい」といったことを話しているのを聞きました。ちょっと極端な話ではないかと思ったのですが、最近行動隊メンバーで福島出身のひとから、ご自分の姪が、福島出身であることを、縁談などに差し障りにならないかと心配しているということを聞かされました。

そういえば、ヒロシマ、ナガサキの被爆者、ミナマタ病の患者は、初めそのことを隠したのです。お米や野菜が、何の問題もない作物まで福島産であるというだけで忌避されるという風評被害は、特に悪意がなくても人間社会がとても残酷な仕打ちをしかねないことの表れですが、被害を受けた上に、被害者であることで差別を受ける、それを恐れて被害を隠して生きなければならない-これほどに残酷な風評被害はないでしょう。

 

2.被災地が求めるのは

生存→生活→もう少し便利/快適に→こころ/やすらぎ

わたくしが東日本大震災の被災地を一番先に訪れたのは、宮城県石巻市、最大の死者・行方不明者を出したところです。2011年4月18日、まだ肌寒く、ボランティア団体のテントが並ぶ石巻専修大学のキャンパスで、遅咲きの桜が風に震えていました。

支援物資を収めた体育館並みの格納庫が二棟。水、カップラーメン、衣類などがあふれんばかりです。その入り口に以下のような掲示がありました。「現在、供給過多のため、以下の物を受け付け制限しております。カイロ、ウェットティシュ、マスク、トイレットペーパー、中古衣類、BOXティッシュ、タオル、生理用品、おむつ、スコップ」。

ガソリンも、あまり不自由ではなくなって、中心街の狭い道路では車の渋滞が生じています。

震災から一ヶ月、全国的に注目される大被災地なので救援物資もボランティア活動の人手も豊富なのです。こうしたところでは、震災直後の必死に生き残りを求める状態から、衣食住の最低限が満たされ、その上でテレビ、洗濯機、女性ならお化粧と、もう少し便利に快適に暮らすことが求められるようになっていたのです。

それから一年余を経ていま、「こころのやすらぎ」が求められていると、被災地のボランティア団体リーダーなどが言っています。「いつになったら元の暮らしに戻れるのか、先行きの見通しが立たない状態が続くなかで、こころを病んでいるひともいます」と、そういって言っている被災地の役場の職員自身が、精神的にかなり参っている様子です。

 「おとこはダメ、酒とパチンコばかり」

6月初め、F1北のかなり汚染度の高い南相馬町で行われた「ひまわり農園花祭り」に参加したときに、このイベントの幹事役をしている地元のボランティア団体リーダーが言いました、「この町の薬局では精神安定剤がいつも売切れになっています」。

「ひまわり」の除染効果は、皆さんご存じと通り疑問視されていて、上記の幹事役も特にそのことについては言いません。「ひまわりを広く大きく育てて、地域のひとたちの『癒やしの里』にすることを目指している」ということでした。

風評被害を免れない野菜などを避けて、ツルが太く硬く育って登山用スティックなどになる「ケナフ」の種まきも、南相馬での活動の一環で行われました。これも、現金収入につながる商品作りに加えて、被災者の「こころ」の問題を考えてのことのようでした。
「ひまわり農園花祭り」には、隣接の伊達市からやってきた笛・太鼓の一団が「霊山太鼓」を演じてくれました。その終わりが盆踊りになったのですが、地元からこのイベントに参加し踊りの輪にも加わっているのは、女性ばかりです。幹事さんによると元気なのは女性で、男の多くが精神的に参っていて酒とパチンコに浸っているというのです。自分も男のひとりとして、考えさせられました。

 3、ボランティア活動の難しさ

「自己満足のためじゃないか」

東京から四、50人でチャーター・バスに乗って被災地に行き、四、五時間瓦礫の片付けなどの作業をして帰ってくる。少しでも被災地におカネを落とそうと、お昼は地元のお弁当屋さんなどから調達。ボランティア団体の幹事役が「見物ツアーじゃないから、瓦礫の山の前で『ピース!』と記念撮影なんてことは決してしないで下さい」と注意します。帰りのバスに乗る前、地元の被災者から篤い感謝の言葉-そうしたことを何回か繰り返していると、被災者の声にならない声が聞こえてくるような気もしてきます。カメラを使うことはなくても「所詮は安全な都会からの被災地見物だろう」、「『かわいそうな被災者を助けた』という自己満足のためじゃないか」と見透かされているような思いになるのです。

<行動隊>メンバーのなかでも、ボランティア経験豊富なひとは、「支援活動といっても所詮自己満足のためだ」と割り切っています。

埼玉県浦和からいわき市小名浜に毎週土曜日50人ほどで出かけて瓦礫処理などを行っている<絆ジャパン復興支援チーム>の活動に参加した際には、バスが出て間もなくのリーダーの注意の中で「『支援活動をさせてもらう』という感謝の気持ちを、地元被災者に対して忘れないように」という言葉がありました。“修行”の足りない自分には、腹の底からそんな気持ちになれるかどうか、こころもとないのですが、「助けに来てやったぞ」という気分が、間違っても被災者への言動に表れたりしないようにということはわかります。

要するに、ボランティア活動の一番の難しさは、被災者と被害を受けなかったわたしたちとの間の絶対に越えられない段差を踏まえて、その段差が被災者の痛みにつながることのないように、もっと端的にいえば最低限迷惑にならないよう、活動の内容について具体的に工夫するという事であろうと思います。

被災者と行政/業者の間で

2012年の2月、いわき市北部、久之浜の知的障害者施設、岬学園に一泊二日で出かけた際は、約1000坪の庭、駐車場を重機も使ってかなり大掛かりな除染作業をしました(写真重機)。放射能汚染した芝・表土を剥ぎ取り、小型のプールくらいの穴を掘ってその汚染土等を埋める。掘り出した土を、剥ぎ取った表土のあとにかぶせるという、いわゆる天地返しです。重機の運転免許を取りながらそれを活かす機会がなかったSVCFの女性二人が、加勢に来てくれた土木会社のベテランの指導で、初めて現場で重機を動かす機会を得ることにもなりました。

問題は、活動がここまでくると、もはやボランティアの、つまりシロウトの無償の行為の域を超えることになりはしないかということです。例えばの話、穴ひとつ掘るにしても、ある程度以上の深さの穴を掘るとなると、そうした作業が許される資格者が必要になる、あるいは危険防止の見張りを立てるといった、しかるべき作業手順を踏まねばならないのだそうです。つまり、シロウトではなく業者として仕事をしなければならなくなってくる。

それを、これまで同様ボランティアとして無償で行っていけば、プロの建設業者などにとっては、自分たちの仕事を食い荒らす邪魔な存在ということにならざるを得ません。除染等の復興事業は、いまや建設業者等にとって、行政が税金をもとに発注する代金確実のドル箱仕事になっているのです。

他方、除染などの復興事業を管轄するお役人の立場からすると、ボランティアは、自分たちが発注した仕事を自分たちの監督・指導の下に置く事ができる業者とは異なる存在です。直接の監督が及びにくいという点で、ある程度以上の規模の活動は目障りになってくることが容易に想像できます。

先述の岬学園の作業中、いわき市の役人が遠巻きに作業を監視していたという話を後から聞きました。

「建設業、ないし建設コンサルタントの登録をすべきではないか」と言う声がSVCF内で出ています。SNCFが長期にわたって存続を維持するためには、無償のボランティアでは限りがあり、行政から作業発注を受けて交通費や機材調達費をまかなわねばならず、そためには業者登録が避けられないかもしれません。しかしそれはそれで、SVCFの定款などとの関係からいって、容易ではなさそうです。

 <福島原発行動隊>はどこにいく?

「行動しない<行動隊>では意味がない。原発についての自分の経験・能力は、<福島原発行動隊>以外のところで活かすようにしたい」と、SVCFからの脱退までを言う不満の声が、既に去年の今頃から院内集会などの場で出ていました。最近も「初めて院内集会に出席した」という方が、「当初私が共感した行動隊の理念に対し、やはり中々行動は難しいな、と感ぜざるを得ませんでした。もう少し、エネルギッシュな人や雰囲気を想像していましたが、実際に参加して、正直落胆を感じてしまいました。このままでは、この行動隊の活動は、先細りになってしまうのではないか?と心配します。」と失望感を寄せておられます。

「原発暴発を阻止!」と言う呼び掛けに応じてはせ参じられたわけですから、当然出てくる不満でしょう。ただ、できることをせず徒に日を送っているというのであれば、それは誤解でしょう。「原発事故の収束作業に当たる若い世代の放射能被曝を軽減するため、比較的被曝の被害が少ない退役技術者・技能者を中心とする高齢者が、長年培った経験と能力を活用し、現場におもむいて行動する」というSNCF設立の目的を行動に表そうにも、東電と行政の厚い壁に阻まれて動けずにいるのです。

地震・津波・原発事故が起きて間もなくの2011年4月の発足当時には、いますぐにも暴発しかねないという恐れが現実にありました。水素爆発や炉心溶融が起き、しかもそれを東電・政府が隠蔽しようとしたことから、原発の安全神話は完全に崩壊したからです。

しかし、東電や政府への信頼が回復したのではないにしても、その後の推移から「暴発」の切迫感が薄らいでいることは確かでしょう。そのことで、行動へのきっかけをつかみあぐねていることは否めません。

SVCFが、さしあたり本格的活動の本命として準備しているのは、この4月に避難区域解除された川内村の避難家族の帰村を支援する活動です。解除されたあとも個々の家屋に残っている高度汚染箇所(ホットスポット)を見つけて除染し、地震で壊れた家屋の片づけなどをして元通りの暮らしが出来るように手助けするのです。

それは、発足当初の行動目的「暴発阻止」に直結することではないにしても、「原発事故収束」に向けた大事な作業であることに変わりはありません。

 4.自分になにができるか

切り裂かれるコミュティー

原発被災地・被災者は、様々に分断され、切り裂かれています。

「あのひと、わたしたちを置いて東京に逃げたんだよ」-被災地で親しくなったひとについて、こんなことが言われているのを知ったのは、わりに新しいことです。地元では皆に親しまれ、地震・津波の被害を回復するために精一杯頑張っているように思われるひとなのですが。

「逃げるのは当たり前じゃないか」とも思います。が、逃げる先がなく現地に止まらざるを得なかったひとたちにとっては、「わたしたちを置いて」の裏切りと受けとられたようでした。それが、2011/3/11から一年余を経てなおしこりになっている。悲しいことです。

わたしたちの支援活動でさえ、悪くするとそれが亀裂・分裂の元になりかねないと、支援活動経験の深いひとに聞かされました。「あのうちには、あんなに手助けのひとが行っている」というやっかみを受けると、その地で暮らしていくことが辛くなってしまうというのです。

大学教授をしていたわたくしの友人Aさんが、定年前に退職し、キリスト教の被災地支援組織の駐在者としてこの夏いわき市小名浜に居を移し活動を始めました。そして経験したのは、避難家族の暮らす場所についての僅かな違いで、行政の扱いがはっきり線引きされていることです。それはなんと、仮設の避難住宅か、町借り上げのアパートなどであるかの違いです。どちらも住宅費は行政がまかなっているのですが、支援物資などは“借り上げ組”には遮断されているといいます。Aさんが現在支援活動で関わっているのは浪江町からの避難家族ですが、小名浜に避難してきている浪江町民はほとんどが後者、「借り上げ」であるため、行政の“冷たい”扱いに苦しんでいます。

避難住宅には集会室があって被災者たちの連帯の場となっている、“借り上げ組”にも連帯組織が作れるようにと行政に働きかけるが、「個人情報保護」を言い立てて居住地を教えてもらえない―。Aさんは、行政の立場をそれなりに理解しながらも、被災者の日々の苦労を少しでも和らげるためにすべきことをと考えると、こうした場面にも顔を出す官僚的杓子定規に割り切れない思いでいます。

「『犠牲』から目を背けるな」

宗教学者の山折哲男さんは、2011年8月に刊行した『「始末」ということ』(角川学芸出版)でSVCFのことを「たとい生命の危険を伴うかもしれなくてもその仕事の一端を自らも引け受けようと覚悟をもったとき、そのエネルギーとそこから広がる可能性は非常に大きいと思った」と紹介し、「日本的な土壌からも新しい道が開けてきたのではないかと」明るい気持ちになったと書かれています。そしてこの「犠牲」が「正面から取り上げられていない」ことについて、福島原発をめぐる国会の事故調査委員会等やその調査結果に対する首相等の政府関係者の態度、さらにはマスコミを、新聞に連載しているコラムで批判しています(「危機と日本人 『犠牲』から目を背けるな」『日本経済新聞』2012/6/24」)。

このことを、「ジャーナリストの目から」いえば、厳しい現実を直視するということでしょう。現実の報道では、特に写真について、死体をあからさまに新聞紙面に出すことは控えるといった配慮をします。しかし、とにかく起こってしまった災害とその結果には冷静に、真正面から向きあうのがジャーナリストの本分です。

東京などよそから被災地に出向くわたしたちボランティアについても同じ事が言えるでしょう。先述の「分断・亀裂」に対しては特に、地元のしがらみとは無縁のよそ者の利を活かすことができるのではないかと思います。

いろんなことがあり得ます。SNCF発足時からのメンバー、平井秀和さんは、福島に瓦礫処理などのボランティア活動で出向く傍ら、「美味しい」と知られていた福島のお米が、風評被害で売れ行き不振になっているのを見かねて2011年秋から「食べよう!福島のお米」の活動を始めました。その結果、2012年6月末まで約8ヶ月の累計で3トン115キログラムの売り上げを達成することができました。魚市場で働いておられたときの人脈を活かし、お弁当屋さんから月200キログラム、中華料理店から月30キログラムと大口注文を取り付けられました。が、その合計は500キログラム程度。ほとんど全ては5キログラム程度の小口注文で、つまりリピーターを含む延べ約500人が呼び掛けに応じて、福島のお米を買って下さったのです。そのなかにはもちろん<福島原発行動隊>メンバーもおられ、わたくしもささやかながら加わっています。どうか皆様、本日の講演会にお越しになったのを機に、被災地の米作を守ることで福島支援の一翼を担っていただきたいと存じます。

被災地の人びとは、わたしたちのボランティア活動を「よそ者のおおきなお節介」と内心思うこともある一方、よそ者であるが故に時とともに忘れていってしまうことを恐れています。そうした屈折した思いを、被災者なら当然のことと受け止められるのも、よそ者の強みというべきでしょう。

結局のところ何をどうしたらよいか―支援活動のあり方について、四方八方に目配りして整ったお答えをすることはできません。「望まれること、出来ることなんでも」というこころ構えで、ときどきに得られる機会を捉えていくということだと思っています。