「東日本大震災以後の科学と社会を考える研究会」公開講演会記録

大阪大学での「東日本大震災以後の科学と社会を考える研究会」公開講演会の記録です。

(文字おこし:岡田潔)
 9月11日(日) 公開講演会:「いま、関西からできること」 [ PDF ]

時田氏:では時間になりましたので、本日の公開講演会を始めさせて頂きます。
本日は、日曜のお休み中 またぶり返した残暑の折にも関わらず、本講演会にご参加下さりありがとうございます。本講演会を主催しております、大阪大学「東日本大震災以後の科学と社会を考える研究会」の時田と申します。
本日は司会も勤めさせて頂きます。主催者を代表しましてひと言ご挨拶と本講演会の趣旨を、ご案内申し上げます。

震災と原発事故に関連して、さまざまなシンポジウムや講演会がさまざまな大学で開催されて参りましたが、
その多くが 研究者が津波や原発事故の情報を一方的に発信する場でありました。
確かに大学はその様な学びの場であるのですが、未曾有の震災、原発事故の問題は もはや科学技術の狭い分野に特化することができず、より広い社会問題として捉える必要があります。その様な問題に対しては、私達大学人も知識を一方的に発信するだけは足りず、問題を多角的に、より広い視野から捉え分析研究する必要があります。
つまり震災と原発事故を考える場は、私達大学人にとっても学びの場であります。そこで今回のこの講演会では、我々 大阪大学「東日本以後の科学と社会を考える研究会」は黒子に徹しまして、研究者だけで無く広くボランティア活動をされている、市民の方々にお話し頂くことに致しました。
この講演者ラインナップの広さが、本講演会の最大の特徴であり 本会の目指す「今、関西からできること」を参加者のみなさまと共に、考える場を形成するその為のひとつの有効な試みであると信じております。実は、4名の講演者のみなさまには 講演料も交通費すら主催者側からお支払いしておりません。みなさま手弁当で講演をお引き受け下さいました。本講演会は、講演者のみなさまのボランティアによって成り立っております。この場をお借りして、主催者より厚く御礼申し上げます。
 また、今日この場においで頂いたみなさまを含め、いろいろな方がこの会のことを伝えて下さいました。この様な輪が広がり、新たなコネクションが形成されることも、この会の大きな目的のひとつでもありました。その意味にでは、これほど多くの参加者のみなさまにお集まり頂いた自体によって、会の大きな目的のひとつは達成されたものと考えます。心より御礼申し上げます。

 さて、講演に先立ちまして 少々残念なご連絡がございます。既に研究会のウェブやツイッター等ではご連絡させて頂いておりますが、講演を予定されていた作家の高橋三千綱さんが、急病の為欠席されることになりました。高橋さんの刺激的なご講演を楽しみにして来られた方には、申し訳ありません。高橋さんには、また別の機会にお話を伺いたいと主催者も考えております。代わりに急遽阪大で、まさに「いま、関西からできること」を実践している学生さんに、無理にお願いしたところ、二つ返事で引き受けて下さいました。代打と言っても、高橋さんの穴を埋めて余りある講演になると期待しております。私が指導したわけでは無いのですが、このような学生さんが阪大に居ることを誇りに思います。
ご挨拶と言いつつ私の話が長くなってしまいました。最後に一点ご案内させて頂きます。
ご講演の後パネルディスカッションを行います。その後会場のみなさまからの、質問コメントの時間を予定しております。質問はお手元のアンケート用紙にご記入下さい。山崎先生と山下さんに対する質問は、最初の14時35分からの休憩の時に会場スタッフが回収致しますので、お手を挙げてお渡し下さい。
原さんと山田さんへのご質問は、山田さんのご講演後、パネルディスカッションの準備をしている時に、会場スタッフにお渡し下さい。パネルの間に質問をいくつか選ばせて頂き、私の方から質問を代読させて頂きます。

ここで講演に先立ち、3月11日の震災の犠牲者の方々に一分間の黙祷を奉げたいと思います。
みなさまお座りになったままで結構ですので、お願いします。では、黙祷。  ありがとうございました。
では、最初のご講演は近畿大学生命科学科の山崎秀夫教授にお願い致します。ご講演タイトルは「福島第一原発事故による関東圏の放射能汚染の経緯と現状」です。先生、宜しくお願い致します。

山崎教授:それでは、私の話をさせて頂きます。近畿大学の山崎と申します。
早速ですけれども 今ここにスライドを出しましたけれども、実は月曜日と火曜日、南相馬市に行ってまいりました。その時の ここにバスが停まっています。これ機動隊のバスです。丁度原発から20kmということで、ここから先には入れません。今、写真を撮っている場所が幼稚園です。この辺田んぼなんですけど、手入れされてませんから雑草が、こういう状況に今なっております。勿論、20㎞圏内より中には入れないわけですけれども、
南相馬市がどんな場所かというのは お名前はみなさんご承知と思いますけれども、関西の方にはなかなか土地勘が無いと思いますので、後で地図が出て参ります。
取りあえず先ずどんな状況だったか、これ小学校です、 これ幼稚園です。これも幼稚園です。
これは花壇だったんですね。これは幼稚園の所謂講堂です。こんな状況になっています。これ校庭です。
南相馬市の市議さん、一番若い20代の市議さんと 除染対策課の課長さんですけれども、私案内して頂いたんですけれども非常にお忙しい中を案内して頂きました。これ畑ですけれども、荒れ果てた、事故があって六ヶ月しか経ってないんですけれども、こういう状態になっているんですよね。
今見て頂いているこの学校、小学校とか幼稚園ですけれど、手付かずの状態になっている。まだ 比較的汚染のレベルが低いから手付かずなんですね。これ、月曜日にやっていましたけれども 地元の業者の人が作業をしている。ちょっと見難いですけれども、屋根の除染作業をしているんですね。水で洗っています。これとこれは、私ずっと一緒に行った仲間で、サンプルを採取しております。こんな状況です。
汚染の酷いところは、どういうことをやっているかというと、これも国のきちんとした方針が出ていないので、待てないということで 市が独自にやっております。これはある小学校ですけれども、南相馬市で一番線量の高い場所ですけれども、表面 校庭の表面の泥を約5㎝ひっかいて取ります。ひっかいて取ったものをどうするかというと、この部分ですね。この部分がそうですけど 積んでおります。そしてここに穴を掘りまして、ひっかいた後に穴を掘ります。結構広いです。深さが1.5mぐらいあります。この表面の、後でこのデータ出てきますけれども、表面の5㎝ぐらいから下にはもうセシウム 放射能はもうありませんので、下の放射能の無い所を、ここに積んでおります。こういう状態にして、この所に汚染した表面の校庭の泥を入れるわけですね。
その上に汚染して無い泥を上に被せる。という様な形でやると、これは多分暫定的だと私認識してますけれども、だいたい校庭の線量が十分の一ぐらいになるということで、取りあえず線量を下げるということで、こういうことがやられております。この作業、南相馬市では今週中に市内の小学校全部、終了するそうです。
新聞なんかで、ご覧になった方多いと思いますけれども 政府が発表した一番最初に米軍の力を借りて作った線量の図ですけれども、ここが原発ですよね。南相馬市というのはここの所です。先ほど20㎞の圏内立ち入り禁止と言いました、ここが20㎞圏です。
南相馬市というのは幸いなことに、比較的原発に近い割には低かった場所でありますけれども、ああいう状態です。我々行く時には 新幹線で福島迄行きます。この非常に汚染の高い所を通ってですね、これは車で行くんですけれども南相馬市に行くわけですね。これは線量高いですから、立ち入り禁止にしたらこの辺もうは陸の孤島になってしまいますので、道路は通れます。道路は通れますけれども、そういう所がまだまだあるということです。
これも、もうみなさんご承知のことなんですけども、3月の11日に地震があって その後12日から15日の間にですね、1号炉から3号炉までが次々と水素爆発をしてメルトダウンをしたと、いうことであります。
後で行動隊の方 専門的なこと知識のある方出てくるかもしれませんけれども、私共いろんな情報から、もしかしたらメルトダウンだけじゃなくて、メルトスルーが起こってるんじゃないかと 考えております。メルトスルーというのはもう圧力容器とか格納容器の下まで核燃料が落っこちてるということですね。そういう可能性もあります。理由はもし質問があれば、後で答えたいと思いますけれども、そして3月の15日から16日、3月の21日から22日のこの2回に亘って実は、雨が降りました。その時にどうも、この雨に洗われて、非常に放射性物質が落ちたと、いうことでこの汚染地帯というものが形成されたということがあります。
これはつい最近発表されたですけれども、この黒い点々が全部土壌、さっきのは空中の放射線量です。
これは土壌の中のセシウムの濃度を測ったやつですけれども、先ほどの図と非常に良く一致しているのですね、
基本的に土壌汚染している土から来る放射線で、今は被曝して、そういうことになると思います。
一番最新なのがこれですけれども、土壌のデータと空中からの観測データですね。
政府というのは、国というのは非常にきっちりしてましてですね、100㎞圏内まで測っているんですね。
そうすると、100㎞圏というと100㎞圏までしか発表しないですね。ということで、多分もうちょっとこっちも測っていると思うんですけれども、 基本的にはこの辺が非常に濃度が、後で数値が出てきますけれども、300万ベクレル/㎏ 1㎏あたり300万ベクレルというのが、この赤い部分であります。それからこの辺のちょっと薄い茶色の所が、だいたい1万ベクレル/㎏という値ですね。
1万ベクレルとか300万ベクレルとかいう数字は後で出てきますので、ちょっとだけ頭の中に入れておいて下さい。こういう方向に飛んで行ったのが こういう方向に流れてきてですね、この延長線上に群馬県とかがあるわけですけど、この群馬県の先に長野県があります。例えば軽井沢とかですね、どうもその辺まで飛んで行ってるらしい。もう一つはこのラインですね、これは有名になった これもデータ後で出てきますが、千葉県の柏市というのがこの辺にありますけれど、かなり酷い汚染があります。それから北の方で行きますと、こちらは岩手県ですね、岩手県の南部の方まで あるいは山形県も汚染しているらしいということで、東日本一帯ですね、今回の事故によって汚染起こってしまったということで、これはもう紛れも無い事実ということになります。

私の方はどういうことをやりましたかと言うと、先ず地震があって、原発に危ない水素爆発があったということで、 早速大学の屋上でですね、東大阪にありますけれども、大気粉塵中の放射能濃度の変化を見ております。これは、測定しているわけですけれども、先ずヨウ素が、3月の25日ぐらいから出て参りました。
非常に僅かな濃度なんですけれども、出てまいりました。ヨウ素がずっと一週間程で続けた後にですね、セシウムが出て参ります。濃度が高くなった所で、実は雨が降りました。雨が降って「ウォッシュダウン」と言いますけれども、大気中の粉塵の濃度が一気に下がる。これは地上に落ちてしまったということですね。
その後また濃度が高くなって、もう一回大きな雨があってここでも落ちる。
この時に、セシウムだけでは無くて バリウム140とかですね ここでは ジルコニウム、ニオブというような放射性核種が出てきて、もうこのスペクトル見た限り後で出てきますけれど、こういうスペクトルから判断するわけですけれども 原料がメルトダウンしているなということは 明らかなわけです。
関西でこうなんだから、おそらく首都圏でもかなり汚染しているだろうなという、これは直感です。
原発の近くは我々一般の人間は入れません。行政とか国がそれなりに調査をしていますので、私としては関東圏ということで4月の上旬から、ちょっと小さいので分かり難いと思いますが とにかく関東圏これは原発からだいたい200㎞ぐらい離れたところをターゲットにして、測定を始めました。
まだこの頃は ヨウ素 4月の初めですのでヨウ素が見えております。これ実は自画自賛になりますけど、この頃ヨウ素がどのくらいあったかということは非常に大事なことですね。 実はみなさんご承知のように甲状腺癌 小児の甲状腺癌の原因になると言われてますけれども、ヨウ素が事故の時にどれ位出ていたのか、どれくらいヨウ素で被曝していたのかって実は分からないんですよね。今頃になって、最近ホールボディー・カウンターで子供の甲状腺測ってますけれども、もう残ってないですよね。今更測ってもなんの意味も無いわけですよね。ところがこういう早い時期でのデータが殆ど無いというのが現状です。

ヨウ素の話はそのくらいにしておきまして、この中で一番問題になるのはやはりセシウム137、現在はセシウム134の方が線量としては高いんですね。だいたい量は同じなんですけれども、放射線量としてはだいたいセシウム137の方が3倍くらいこちらの方が多いんです。けれども、セシウム134は半減期2年ですから消えていってしまいます。後137が残るんですよね。そうするとですね、例えばこれが東京駅と皇居の間の辺の公園のところです。これをずっと見てゆくと分かると思いますけれども、だいたい 3000ベクレルとか1万2500ベクレルとかですね。さっき1万ベクレルって話が出てきましたね。それからこれ千葉ですけれども、2万ベクレルとか3万ベクレルとかいうことですね。それから群馬県の北の方です。これも1万ベクレルとか2万ベクレルとかいうことで結構高い。原発から200㎞以上離れている所でもですね、結構高い値を示しているということです。
それをもうちょっとこの辺ですけど、こうやって見てゆきますと近くても低い所もあります。3.1というのは セシウム137の土壌中の濃度ですけれども、この辺高いですよね。
さっき柏と言いましたが、柏というのは実はこの辺なんです、結構この辺は高いということですよね。
埼玉県は意外に低いですけれども、また群馬県の北の方はちょっと高いと この延長線上、この辺が那須高原です。ちょっと数値が書いてありますけれども、ここよりはもっと高いです。
その延長線上に先ほど出てきた、最初に出てきた図があるわけですけれども、そういう放射性物質は、どうなっているのかというのをちょっと調べたのがこの図です。横軸に深さですけれども 大部分の場所 これは神宮外苑ですよね。これ神宮外苑じゃありません、失礼しました。皇居外苑ですちょっと書き間違えています。これ北軽井沢です。これ畑です。両方とも畑ですけれども、表面の1㎝ぐらいの所に大部分が存在している。ただこの畑ではですね、表面の5㎝ぐらいのところまで潜り込んでいるということで、状況は場所によって少し違うんですけれども、基本的には 表面にあるということで、先ほどあの小学校の校庭表面の5㎝を削ったという話をしましたけど、その根拠になるのが、こういうデータになるわけです。

それから日にちが経つとどうなるかということで、3月のこれは福島のもちょっと測ってますけれども、
だいたい4月の上旬と下旬ぐらいで測っていますけれども、少しずつ、ちょっとずつどの地点でも増えています。この段階では 3月4月の段階ではですね、未だ少し汚染が進行していたと考えていいかと思います。
おそらく、ヨウ素は全然検出されませんので 現在はもう原発からダイレクトに放射性物質が出てきて汚染が首都圏で汚染が起こっているということはまず無いと思っています。それから、これ北軽井沢の例ですけれども 耕作する前は1000ベクレルを超えているんですよね。ところが 耕作するとこれ減っちゃうんです。
耕作してミキシングされると、薄くなっちゃうんですよね。見かけ上薄くなっちゃいます。ですから非常に大事なことは、土壌汚染を濃度で示すということは無茶なんですよね。本当に汚染しているかどうかということは分からないんですね。

後で出てきますけど、蓄積量という表示の仕方をします。同じ北軽井沢、これも耕作した後100ベクレルぐらいの所ですけれども、ここの落ち葉を見ますとこれの何十倍になります、40倍ぐらいになりますかね、凄い量になりますよね。落ち葉の下は殆ど無いんですよ。それから、寄生しているサルノコシカケという茸、これもご承知のように茸というのは放射性物質を吸収しやすいということですね。ところが、これ露地栽培ですけれどもホダ木から作った椎茸には放射能殆どありません。ということで、食べ物というのはもの凄くご心配なられる方が多いと
思いますけれども、直接3月の段階でかかっていない、ホウレン草とかお茶が問題になりましたけどね、あれは直接空から降ってきたのがかかったんですね。それ以降はですね、あまりこういう放射能が食品に移行することはどうも無さそうだと云うことが、私の結論です。
同じ畑で、いろんな物を作っております。それを測定しておりますけれども、唯一放射能が検出されるのは、枝豆です。私その枝豆ですが、ビールと一緒に食べてますけれどもね、だいたい土の 土壌濃度の1%ぐらい枝豆に
移行するようです。100ベクレルとして、1ベクレルとか2ベクレルぐらいです。1000ベクレルでも 10ベクレルぐらいです。ですから、1㎏も枝豆食べませんから、気にしなくてもいいんじゃないかなと思っています。ここからは、どの位今回の汚染というものが酷いものだったのか、ということをちょっとご紹介します。

ちょっと専門的な話なので、分かり難いこともあるかも知れませんけれども、ここに黄色で書いてあるのが、
グローバル・フォールアウトと言います。戦後の大気圏内核実験がありました、アメリカとソビエトですね。
その時に降ってきたものですね。第五福竜丸の事件と云うのが1954年にありました。チェルノブイリの事故が1986年です。グローバル・フォールアウトの痕跡がね1963年にあるんですよね。日本では何箇所かで測定されたデータが今も残っていますけれども、1年間でだいたい1万6千ベクレル/平方メートル、先ほど東京のデータ公表しましたね、皇居外苑のデータですね。これは一年間で1万6千です。チェルノブイリの時は160ベクレルです。案外どうってこと無かったんですね。日本ではですね。日本ではどうってこと無かったということで、その位です。実はこれは琵琶湖の堆積物なんですけれども、細かいこのブルーですよね。琵琶湖の堆積物の中には過去に降ってきた放射性物質が溜まっているんですね。これと良く合ってるということを示している図なんですけれども、同じ様に長崎市に西山ダムという長崎市の水源になっている日本で二番目に古いダム貯水池があります。
そこの泥を測ってみますですね、こんなデータが、こちらが古い方でこちらが表面ですね。先ほどのグローバル・フォールアウトっていうのは、実はここに見えてくるんですね。その下の所にもっと深いところに、凄いピークが見えますね。この凄いピークは実は、長崎原爆のピークです。長崎原爆っていうのはプルトニウムが原料ですからね、凄まじい濃度のプルトニウムが検出されるんですね。だけどね、これ本当に不幸中の幸いです。これだけプルトニウム濃度高いんですけどね、水には全く出てきません。要するに泥にくっ付いちゃうんでね。だから泥が汚染する、土壌汚染っていうのはね。ある意味では恐いんですけど、泥にきちんとくっ付いてしまうということで、他に移行しないということで この水源地の水を飲んでも全然大丈夫です。全く問題ありません。という幸いなこともあるんですね。このデータから何をしたかというと、分かり難いデータで数字の羅列で申し訳ありません。要するに黒い雨、今見て頂いた西山貯水池の直ぐ北側に黒い雨が降ってるんですね。その黒い雨がどの位降ったのかということを推察してみました。勿論当時のものはありませんので、今現在我々がそこに行って測定するわけです。資料取ってきてですね、そしていろいろ計算するわけですけど、黒い雨が降ったところで一番濃度が高かったところが11万ベクレル/平方メートル、1平方メートルあたり11万ベクレル 平均値で2万7千というふうになります。

先ほど出てきた、福島県はこれを完全にオーヴァーしています。それから、もうひとつ大事なことはですね、
グローバル・フォールアウトが降ってから現在までに、57年経っているんですけれどもこの間に、
実は計算上85%が流失して行ってしまっている、土にずっとくっ付いてはいるんですけど 残ってはいないんですね。流れて行ってしまう。長崎市の場合はですね、西山ダムに流れ込んでいるんですね。これは計算上の話ですけど、15%位が今でも土に残っているということになります。
そうすると、後は こういう汚染した土がどれ位、放射線を発生していて、それで我々どれ位被曝するかという話になると思うんですけども、これはもう単純な計算をしたわけです。都内で測定した、東京都内ですけど平均的な普通の小学校の校庭です。黄色で示したのがヨウ素131、現在ではもう0になってますが、資料を採取した日ということに決めております。事故があった時がこの時ですね。
そうすると、先ほども言いましたが セシウム137というのは、この位線量があるんですね、ここからここの部分がセシウム134です、だいたい倍ぐらいありますよね、合わせて3倍です。ヨウ素はもう殆ど消えちゃってますから、10年経つとですね、セシウム134も消えて無くなっちゃいます。セシウム137は90年、2100年になった時にだいたい10%ぐらい残ると、現在の未だ10%ぐらい残るというね、計算上はなるわけですけれども この内の85%ぐらいはどっかに流れていってしまうということですから、実質的には殆ど無くなっちゃうんですけど。

これは柏市のホットスポット、一番濃度が高かった所ですけれども 今日の数値で計算してみます。
本日、9月11日でだいたい2.8マイクロシーベルト/hぐらいの数値になってるはずですけれども、これが10年ぐらいかかって減っていくということ、こういうシュミレーションも、これシュミレーションという程のこともないですけど、柏市のホットスポット、私が測った中で一番濃度が高かった所ですと、3月の16日現在要するに放射能が落ちてきた日に換算すると、4.46マイクロシーベルト 50年間その場所に居てずっと被曝したとして約60ミリシーベルト被曝するということになります。
60ミリシーベルト被曝するというのは、どういう意味があるのか、癌が心配ですよね、そういうようなことになるわけですけれども、東京都内で一番高かった所は、この値です。福島市がこの辺です。柏市のホットスポットは福島市より高いんですよね。場所によっても随分違うということですけれども、これもいろいろと議論があってですね、これより新しいデータもあったりもするんですけれども、これ一応1990年のですねICRPの勧告に従います。どういうことを彼らはしてるかと言うとですね、放射線作業従事者については、僕もそうなんですけれども、千人に一人死ぬ、千人に一人死ぬのはこれは認めよう。受忍しようということです。
千人に一人はこれはもう数に入らないということですよね。
一般人に付いては1万人に一人。一万人に一人までは受忍しよう。これは社会的に必要悪だということですよね。
放射線のリスクの計算というのは、ちょっと甘く出来ています。私 重金属とかもやってますけれども、重金属とかですとだいたい100万分の一、100万人に一人という計算をすることが多いんです。

けれどもね、放射線のリスクの計算というのは、随分と甘いということですよね。それはですね、バックグラウンドがあるからだということです。先ほど 80ミリシーベルトということを言いましたけれども、この表はどういうことになっているかというと 作業者は18歳から65歳まで被曝し続けるという前提です。
年間例えば、50ミリシーベルトを毎年毎年被曝し続けたらどうなるかというと、50歳から60歳 55歳ぐらいですかね、千人に一人は死亡しますよ。というリスクになるという、そういう計算になるわけですね。同じように、一般人について同じような、一万人に一人が死亡するのはどの辺かというとこういう計算になるわけですね。そうすると1ミリシーベルト、年間1ミリシーベルトでずーっと一生涯被曝し続けて、おそらく、一万人に一人死亡するというリスクには到達しない、それで1ミリシーベルトという数字が言われてるわけですね。
この辺がちょっときちんと理解されないで、いろんなお話が出ていてですね、混乱される場合が多いんですけれども、詳しい説明は後にしましょう。だいたい時間が来ましたので、最後にもう少しだけお話させて下さい。

これはチェルノブイリです。チェルノブイリはヨーロッパですよね、千㎞の範囲はこの辺です。だいたい1万ベクレルぐらいのところはこのラインですね。2,3日前の新聞にも出てました、ドイツの大使館 今、日本に来るの恐いからって大使館員が赴任しないで困っていう話がありますけど、実はドイツって結構高いんです。
日本より高いかも、東京より高いんです。今でも これ現在のあれです。これがチェルノブイリの近くで100㎞圏内300㎞圏内、さっき私が調べたのはこの辺のラインですよね。ここが福島原発ですとこの辺のラインですよね。だいたい同じです。この辺のラインですと、18万ベクレルぐらいですよね。
ということですので、似たり寄ったりというようなことになると思うんですけども、これが基本的に最後の図になりますけれども、チェルノブイリでどれぐらいのことが起こっているかというと、実は、小児甲状腺癌18歳未満の甲状腺癌、これだいたい日本もこちらも 百万人に一人ぐらいが発病します。一年間に百万人に一人ぐらいがですね。事故から3年後から4年後ぐらいから増え始めます。現在すこし 少なくなっているようですけど、最新のデータでは、ベラルーシとロシアとウクライナと合わせてだいたい5000人の人が小児甲状腺癌になったらしいということになっております。

それから、こちらはですね、先天異常がどれ位出たかということですね、線量の高い地域と低い地域こういう具合に出てますけれども、これ不思議ですね これ僕書き間違えたんじゃないんですよ、線量の高い地域の方が先天異常の発生率低いですよね。放射線浴びた方がいいのかという話になっちゃいますよね。これ違うんです、勿論違うんです。想像つくと思いますけれども、線量の高い地域というのは、危険を感じて中絶してるんです。ですから、危ないと思って中絶してる人が多いので 見かけ上低く出ているということになっています。実際にはそういうバイアスがかかっているということです。ちょっと細かいことここに書いてありますけど、ちょっと時間が来ましたので、このぐらいにしておきます。

これ最後なんですけれど、南相馬市で一番放射線量の低い小学校ですけれども、これは学童保育の会場になっているんですよね、 この子達がここで一生住むとしたら、一生放射線を浴び続けて過ごすわけですよね、なんとかしないといけないですよね。こういう格好で作業しているんですけれども、全然反応がありません。もう慣れっこになっちゃってます。この子達は慣れっこになっちゃってるんですよね。正しくこの会のタイトルだと思いますけど、我々関西の人間がですねこの人達に何がしてあげられるのか、ということになるかと思うんですけど、それはこれから議論が深まってゆくと思いますので、その議論に期待したいと思います。ちょっと時間オーヴァーしてしまいました。これで一応私の発表を終わらせて頂きます。どうもご静聴ありがとうございました。

時田氏:山崎先生ありがとうございました。続きまして、大阪大学大学院、理学研究科物理学専攻博士後期課程在学中の大学院生で、「ACTION」という学生団体の運営もされている、山下和男さんに「ACTION」について というタイトルでボランティア活動についてご報告頂きます。山下さんお願いします。

山下さん:ACTIONの山下と申します。大阪大学理学研究科物理学専攻博士後期課程に在学しております。今日は高橋先生の代打ということで、穴埋めには全くなりませんが 30分務めさせて頂きますよろしくお願いします。今日は私の所属しております学生団体「ACTION」という団体の活動についてご紹介させて頂きます。私は「ACTION」では一応庶務ということになっております。「なんで庶務が喋るねん」ということですけど、ご勘弁下さい。
「ACTION」ですけれども、結成は本年の5月震災以後に結成されました。
代表は理学部物理学科の神田が務めておりまして、運営はここにあげました14名 全て大阪大学の学部生及び院生で構成されております。本団体の結成の経緯でございますけれども、前代表、最初の代表の原田亮が東京のNPOさんの支援活動に3月の末頃に参加しまして、そこで復興の為には長期的な継続的な支援が必要であるということを感じました。それから現地から大阪へ戻ってきた時の、現地と大阪或いは関西の落差、意識の違いというもの 更にはボランティアに行くことを希望していても、どうやって行けばいいのか分からないであるとか その機会がなかなか無いという現状が当時ありまして、そういう機会が無いなら自分達で作ればいいのでは無いかということで、結成をされました。

私達の活動の概要と致しましては、大きく2つありまして、ひとつは被災地支援活動ということで、自分達で実際に現地に入って、支援活動を行うということです。もうひとつは情報の発信ということなんですけれども、長期的支援の為には被災地 或いは被災された方々のことを忘れずに常に気に留めておくような環境、空気作りということが、必要であろうということで 私共の活動についての報告なりを関西各地で開催させて頂きまして情報の発信ということで被災地を思い出すきっかけになればいいなということで活動しております。
これらの活動が被災地の、或いは被災された方々の長期的支援のきっかけの一助になればいいなということで、私達活動をやっております。

支援活動に関しましては、大阪から大型バスで現地に入りまして、活動を行いますけれども、それほど長期の活動ということは私共は行っておりません。例えば学校がある時期は週末二日間活動をして帰ってくるとか、今夏休みですのでちょっと長い間三日とか活動して帰ってくるという、短い間なんですけれども その中で出来るだけお役に立てるような活動というのを行いたいということで、常に現地で活動されている方々や現地で活動しているNPOさん達と情報交換なんかをしながら 現地の今のニーズに合った活動ということを、心がけております。それから参加者さん達の負担というのが特に金銭面では大阪と東北では遠いですので、バスの移動交通費だけでもかなりの額になりますので その参加者の方の負担を少なくする為にできるだけ経費の節減であるとかを行っております。
或いはご寄付をお願いして、その寄付頂いた分を参加者さんの参加費を減らす分にあてるとか、助成金を頂いてその分で参加費を安くするということをやっております。それから情報発信ということでは、報告会の開催というものを他大学や、大阪大学周辺の場所それから勿論大阪大学の中で開催しております。それから各種支援情報の周知ですけれども、私共のバス、支援活動だけではそれほど多くの便数も稼げませんし、支援活動の内容についてもバリエーションを持つことはできませんので、いろいろな団体さんのバスの情報であるとか、活動内容の情報であるとかっていうことを周知 例えばツイッターなどを使って周知することで、ボランティアされる方、支援活動に参加される方の裾野を広げようということで活動しております。

私共の活動は別にユニークなものでは無くて、他の学生団体さんでもやられている活動でございます。ここに代表的なものとして、ふたつ上げさせて貰いましたけれども ひとつは「Youth for 3.11」さんというこれは、東京大学の学生さん達が立ち上げた団体ですけれども、さまざまなNPOさんと学生を繋ぐということをやっていて、その学生さんの費用負担をNPOさんが持つことによって、学生さんがより支援活動に参加し易いというモデルを作って活動されています。現在では、日本で最も大きいボランティアの学生団体となっております。本学におきましても災害支援のボランティアサークルというのがありまして、それが「すずらん」さんで すずらんさんは岩手県の野田村というところにNPOさんと一緒に入って活動というのを現在、主にされていると承知しております。

次に私共の支援活動について報告をさせて頂きます。私共は、最初の活動というのは 5月の末に宮城県の気仙沼市大島という離島で、活動して参りました。参加者は本学の学生及び大学院生100名で、活動内容としては、瓦礫撤去及び被災した施設の清掃、泥出しということを行いました。現地の住民の方々で組織された、「おばか隊」の方々や、災害対策本部の方々及び災害支援団体「ロッツ」さまにご協力を頂いて、活動を行いました。大島はあまり馴染みのない方が多いと思っておりますので、ちょっと簡単にご紹介させて頂きますけれども、大島は東北地方最大の有人島でございまして、人口は凡そ三千五百人で主要産業としては、観光業と漁業があります。特に、十八鳴浜といいまして ここは踏めばキュキュと鳴る、鳴き砂の海岸でして近いうちに国の天然記念物に指定される見込みとなっておりますが、こういう所に代表されますように非常に 自然の綺麗な場所です。ここが東日本大震災によりまして 大変な被害を受けたわけですけど、ひとつは津波で船舶が流されてしまいまして、孤立状態になった。島ですので補給ということができなくなってしまった 或いは水道が使えなくなってしまった。それから、震災の後直ぐに気仙沼の港にある石油のタンクというのが倒壊して大火災が発生したんですけれども、その火災が海を渡って大島の方に迄、延焼を起こして亀山という大島で最も高い山なんですけれどもこれが火災を起こしたというようなことがあって、結局その補給というか消火活動も島民の方だけでやったと、いうようなことがありました。孤立しておりましたので、海軍による空輸であったり揚陸艦での支援活動というのが行われました。現地の方々によりますと、震災以降初めてお風呂に入れたのが二週間後というような状況だったと聞いております。これは先ほど言いました気仙沼の火災ですけれども、こちらがその元の気仙沼の港市街地の様子なんですけれども、それが下に対応する場所が、数㎞x数㎞の範囲に亘って三日三晩燃え続けたということがありました。

次に私共が現地で行った活動について、写真を交えながらご報告させて頂きます。先ず大阪からバスで気仙沼に入りまして、港に着いたわけですけれども 先ほどの火災の影響、津波の影響で気仙沼の状況というのはこの辺壊滅状態となっておりました。こう見て頂いても分かる通り、見渡す限りこういう廃墟のような状態が広がっておりました。
大島にフェリーで渡ったわけですけれども、大島に付いて直ぐにこう瓦礫の山が、私達を出迎えてくれたということです。港に停泊していた船であるとかも津波のせいで、陸に打ち上げられて道を塞いでいた状況です。現在ではこの船は既に取り除かれてはいます。これが瓦礫の山とスクラップの山です。先ほどの船は、学生がこれだけ入って 雨宿りできるぐらい大きな船ということです。我々は先ずその100人と人数が多いということで、重機がなかなか入れないような所で 人が多いメリットを活かして活動を行ったということです。このお宅は実際にはここにあったわけでは無くて、かなり斜面の下の方にあったわけですけれども 津波で流されてきて引き波で戻されてこの竹やぶに当たって止まったということで、このお宅を片付けないといけないということで、私達でこの瓦を外してバケツリレー方式で運んで、車に乗せて集積している場所迄運んだと、或いはこれは海岸ですけれども 黒くなってるのは火災のせいで燃えてしまっているわけですけれども、この様な海岸の清掃であるとか、こちらが小学生、中学生の体験施設で例えばそのカヌーであったり、さまざまな自然体験ができるような施設だったんですけれども、建物の中は泥でいっぱいになっていたり、漂着物で埋め尽くされている状態でしたけれども、これの清掃も行いました。震災の発生した時間には皆で並んで黙祷させて頂きました。それからこの写真は、介護施設の写真なんですけれども あらかた大きな泥というのは業者さんが取り除いてくれていたんですけれども、細かい掃除であるとか、足とかに付いた泥であるとか津波で波が来てますので、そういう清掃も行いました。夜にはこの方は旅館の方なんですけれども、この方にお願いして実際のご自分の被災体験であるとか或いは大島の被害状況についてご説明を頂いたということです。

参加した学生さんの、感想を代表的なものに付いてご紹介させて頂きます。読み上げます、地震津波の恐ろしさと同時に現地の人々の強さを裸で感じた。支援に行かせて頂いた私の方が逆に勇気付けられた。であるとか、自分の目で見て臭いを嗅いでその中に立って、初めてその被害の大きさが分かった。関西に住む僕らにとっては終わった話になりつつあるけど、この人達にとっては寧ろこれからの問題である。阪大生100人が2日間泥んこで働いたけれども、何もできなかった。・・・・という感想を頂きました。実は私はこの段階では運営側の人間では無くて、参加者として参加してたわけなんですね。折角なので、僕自身の感じた感想についてちょっと喋らせてもらいますと、確かにその目の前には もの凄い被害というのが目の前に広がっているわけですけれども、やっぱりその現地の方と同じように感じられないんだなということを、実感しました。それは 思い出も無ければ、人々も知らないし、その建物も知らないという人の限界かなという風に感じました。それからその目線を合わせるという、現地の方々と ボランティアとして参加している自分とのその目線、立場を合わせるというか、対等な立場になる、どういう風に話すか、関係を持つかということですけれども、それの難しさというのを感じました。その立場の問題というのは、現地の方々というのは基本的にボランティア支援される方々でございまして、ボランティアというのは支援する側、与える側として参加している、そういうそもそもアンバランスな関係で出来ている、ボランティアとしては現地の方々に遠慮がありますし、どう話しかけていいのか、どう接したらいいのかという手探りという状態というのがあります。現地の方々にしてもボランティアに対しては、実は様々な思いがある それは自然なことではあるんですけれども、なかなか言い出せない、来てくれてありがとうとしか言えない状況があったわけです。現在もあるわけですけれども、そういうわけでなかなかその、思ったような関係を築くのは難しいなということですね。ボランティアとして参加しててもちょっとした言葉遣いというのがなかなか難しいんだなという実感を受けました。

これは東日本大震災支援全国ネットワークさまの、ウェブページに公開されている、PDFファイルから取ってきたんですけれども、被災地という言葉であるとか、或いはその瓦礫撤去、瓦礫撤去と言ってるですけど、結局そのお家を片付けてるわけですよね、或いはその被災者という言葉ですね。そういう言葉に対して現地の方々は非常に敏感になってる、特に最初の時期に敏感になってるということで、非常に難しいなと なにをするのも難しいなと実感がありました。以上二つの感想というのは行く前から、こうなるかもしれんなということで、僕自身予想していたことでもあったんですけれども 実は行ってから思ったこととしては、行けば力になれることは結構あるんじゃないかという実感がありました。僕は阪神大震災の時は小学生でしたので、記憶に無いんです。けれども 初めてボランティアとして大地震の現地に入ったわけですけれども、こういう新しい発見が この中でありました。そういうわけで 運営メンバーに入れて頂くと、それでできるだけ多くの人にボランティアとして参加をして貰えるような機会を作りたいなと運営に参加させて頂いております。

実は今日からまた、気仙沼市大島にボランティアバスが出るんですけれども、それをACTION2と呼んでいるんですけれども それに向けて最初の5月の末から現在迄3ヶ月ぐらいのタイムラグがありまして、さまざまな状況の変化というのがあります。ここに3つ上げましたけれども、ひとつは参加してもらう学生さんの意識の変化です。もうひとつは行政の変化、もうひとつは現地ニーズの変化です。学生の意識の変化としては、私達自身、募集時期が学校のテストが終わって
夏休みに入った後募集してしまったという手際の悪さであるとか、ACTION1と比較して参加費を上げてしまったという、ハードルを上げてしまったというのもあるんですけれども、参加募集に対してレスポンスが良くないという実感がありました。これは時間が経ってしまっているので、関心の低下であるとか、この時期に関しては特に原発関連のニュースというのが非常にクローズアップされた時期でもあるのでそちらに興味が移ってしまったのかなという感じを受けました。
ですけれども、このことに関しましては募集範囲を阪大生に限定せずに、広く募集することで 定員を満たすことができました。それから、余り時間もありませんので早めにしますが、行政側の変化としましては 災害派遣等従事車両証明書発行の停止というのが一旦決まりました。要は、ボランティアで行くバスであるとか ボランティアで使う車両であるとかの、高速道路の費用を無料にする話なんですけれども、それを止めるという話が持ち上がりました。
そして結局 3ヶ月だけ延長する、12月の10日までは延長するということになったんですけれども、そういう風な
変化もあります。それから、ボランティアを受け入れる組織として、一番メジャー最も大きい組織は 現地の社協が開いてます、ボランティアセンターというのがあるんですけれども、ボランティアセンターが、順次団体の受け入れや県外からの受け入れを中止しているという現状があります。それから ボランティアセンターそのものも閉鎖するという様な、もう直ぐ多分気仙沼でも閉鎖するという話になっているんですけれども、そういう現状がありまして、なかなかボランティアが現地に入るという、ハードルが上がってきているという状況の変化もあります。それから勿論現地のニーズの変化というのがありまして、現地の状況の変化というのがあるわけですけれども、避難所で一箇所に集まっていた人達が、
仮設住宅でバラバラになるということ、それから、ボランティアについて求められる活動内容についても 瓦礫撤去からより一人ひとりに向き合う心のケアのようなものが、より重点が移ってきている。それから、ライフラインなどは復旧したということで、次は被災された方々の、経済的であるとか さまざまな意味での復興というフェーズに状況が移行しつつある。今まさに移行期でして、ボランティア活動するにしてもどうすればいいのか、何をすればいいかかなり難しい状況で それは各地で復興状況は違うわけですけれども、共通の悩みとしてこういうものがあります。
それを受けまして私共では先ほど申し上げましたように、今日から15日迄と26日から30日まで、気仙沼市の大島で活動させて頂くことにしております。参加者は阪大生に限定せずに学生、及び一般の方からも是非参加したいというお声を頂きまして、それならこちらも大変ありがたい話ですので、是非ということで参加して頂くとこになっております。

状況の変化ということを受けまして、活動内容は まだまだ片付いてない場所というのは、大島は離島ですしボランティアの数もなかなか気仙沼市内に比べて、ずっと少ないということもありまして 瓦礫撤去のニーズというのは未だあるにはあるんですけれども、よりその交流、状況の変化に合わせた活動を行っていこうということで、現地の方々と交流 具体的には現地の高校生の方にお願いをして友達を集めてもらう交流を行う予定ですし、観光というのも行います。観光というのは、ボランティアツアー 特に旅行会社さん等が行っているボランティアツアーというのは、例えば岩手に行って平泉に寄って観光して帰るとか、観光地を巡る観光というのもあるんですけれども 今回の場合に付いては、大島の名所を見てくるという観光を行います。なんで観光を行うのか?ボランティアで行くのに観光するのか?なんですけども、先ほど申し上げましたように、大島というのは元々観光産業で成り立っている島でありますので、観光客が減ったままというのは、島の復興という面で非常に痛手でして 折角ボランティアに来てくれた方には、メッセンジャーとして地元に戻った後でも、大島のことを実際に見て宣伝をして欲しいと、それで観光客にまた戻ってきて欲しいという現地の方々の思いというのもありまして、名所を見させて頂くというプログラムを組んでおります。

最後に私というか、私共の思いを恥かしながら述べさせて頂きたいと思います。私は最初参加者として参加していましたので、自分の思いで参加していたわけですけれども、今回運営側の人間として現地の方々や参加者の方々、或いはご寄付頂いたり 現地の斡旋であるとかをして頂ける方々の関わりによって、それぞれの人々の思いというのを、関わることで受け取ってきております。勿論、現地の方々に取って一番いい支援活動の形というのを模索し続けることになるわけですけれども、それは勿論のことなんですけれども、参加者の方々或いはご支援して下さる方々に取っても、いい支援の形というのを、私達の責任として考えてゆかなければいけないなと考えております。以上で私達の活動内容についての説明というのは、殆ど終わりなんですけれども、折角タイトルが「いま、関西からできること」ですので 先ほどの山崎先生の原発の話とは次元が違うのかもしれませんが、いろいろあるかなと思ったので、折角なので喋らせて頂きます。

先ず、ボランティアバスで実際現地に行っていただくというのは勿論、大変ありがたいことであります。けれども、大阪から出ているボランティアバスの数というのが非常に少ないのは紛れも無い事実でして、なかなか遠いですし、お金もかかりますので ハードルの高いことかなと思います。そういう場合でも、義援金や支援金、義援金というのは被災された方々への支援のお金ですし、支援金というのは現地に入っているNPOさんの為の支援のお金です。
支援物資 支援物資も纏めて自治体で集めるというのはではなく、被災された方々と送りたい人を直接、繋ぐというような試みというのも何件も行われていますので、現在でも支援物資というのは、大変要望があるところです。
それから、現地の方々が作られた商品の購入 特にお酒であるとかを購入するという話が元々あったんですけれども、この震災によって仕事を無くされた方であるとか 仕事に就けなくなった方であるとかの生活再建のために、商品を作ってその売り上げを、収入にしようというような試みも、現在幾つか始まっております。ですので、そういう方々の作られた商品を購入されることで、生活再建の支援ということも、できるかなと思っております。それから、先日の台風12号で和歌山や奈良で、豪雨災害が起きてますので東日本大震災に限らず、地元っていうのがありますので、そういう災害ボランティアに参加して頂けたらなと個人的には思います。最後になりましたけれども、大阪大学「東日本大震災以後の科学と社会を考える研究会」さま、及び私共の団体を ご協賛 ご支援 ご協力頂いているみなさまや、会場で聞いていただいたみなさま、及びユーストリーム配信をご覧のみなさまに感謝申し上げます。ありがとうございました。

時田氏:山下さんありがとうございました。ちょっと予定を押しておりますけれども、今から15分休憩と致します。
後半の2件は15時 午後3時から再開致します。今の山崎先生と山下さんに対して、何かご質問等ございましたらアンケート用紙の所にお書き下さり、お手を上げて頂ければ、会場の運営スタッフが回収しに参ります。
宜しくお願い致します。

時田氏:後半最初のご講演を、原伸介さんに 未来への祈り「メッセージうちわプロジェクト」というタイトルで、お話頂きます。原さん宜しくお願い致します

原氏:みなさんこんにちは、今紹介して頂きました、炭焼き職人の原伸介です。今回ですね、どうしてこの場に上がらせて頂いたのかということをみなさんにお伝えする為に来たわけですけれども、そもそも何で炭焼き職人なのかということだけ、ちょっとだけ自己紹介させて頂きたいと思います。その話をしなければ、僕がどうして原発行動隊の広報活動をしているのかということも、なかなか理解して頂きにくいと思います。僕今長野県の松本という所で炭を焼いております。1972年生まれ、ありがたいことに今日誕生日を迎えました。ありがとうございます。天の巡り合わせだなと思います。生まれは神奈川県の横浜なんですね。2歳で横須賀に引っ越して、2歳から18歳迄の一番多感な時期を、横須賀で過ごしました。僕の人生の全ての原点はですね、実は、実家の 今でも実家は横須賀にあるんですけれども 実家の直ぐ裏にですね、僕は裏山と呼んでいた里山があったんですよね。その里山が本当に好きで好きで、毎日駆けずり回って遊んでいました。そんな一番大好きだった里山が14歳一番多感と言われる時期ですね、14歳の時に学校の建設に伴って全て真っ平らに潰されるという経験をしています。その時にですね、子供ながらに いつかこの山に恩返しをできるような生き方をしよう、そう決めたのが15歳の時でした。

ですから僕には古里が無いんですね。僕にとっての古里は建物としての実家では無いんです。その裏山が僕にとっての古里だったわけです。14歳で古里を失った時に、いつか山の為に生きて行きたいな、その思いをずっと持ち続けて気付いたら炭焼き職人になっていたと、実はその気付いたらなっていたというのも 全てご縁というか巡り合わせだなと思うんですけれども、大学を出て 僕大学が長野県だったんですね、信州大学だったので大学を卒業した時に出合った山師ですね、ずっと山の仕事を一筋でやってきた方 大正15年生まれの伊沢衛さんという方、僕は当時22歳 伊沢師匠は69歳でした。そのタイミングで出会って、僕は炭焼き職人になりたかったわけじゃは無いんですね。伊沢衛という男に惚れてしまったという、それが僕が炭焼き職人に 要するに 伊沢師匠みたいになりたいと背中を追いかけていたら 気付いたら炭焼き職人になっていたというのが現実です。1年間ほど修行をさせて頂きまして、独立をして 山を手に入れるところから、山に道を作るところから、木を切って運んで 釜に入れて、焼いて 問屋と喧嘩をして自分で売らなきゃいけなくなって、一次産業 二次産業、三次産業 全部一人でやるという とても素晴らしい経験をさせて頂きまして、たった一年修行をしたぐらいで、自分は炭焼きで飯を食うんだと言った時にですね、周りはとても温かかったですよね 
「無理だバカ」「出来るわけがない」「時代錯誤」「親不孝者」とまで言われまして、やってみたら出来ました。

ですから 僕の中には基本的にやってできないことは無いだろうという前提が今でもはあります。笑ったのがですね、
僕が独立した時に、「絶対に炭焼きなんかじゃ飯食えないよ」と言ったアダチさんという人がいたんですけど、その方10年ぶりに会ったんですよね、こないだ その方僕に会うなりこう言いましたね「俺はね お前はやると思ってたよ」って言うんですね。10年前に言えよ、という話ですよね。そんなもんです。ですから もしかして今行動隊の活動に関しても もしかしたら「そんなこと言ったって60代以上の者が何かできるはず無いよ」って思ってる方が大半かもしれないです。僕の中では不可能というか思い込みは全く無いですので、必ず出来ると信じてやってけば出来ると思っております。それでですね、3月11日、残念ながら大震災が起きまして正直最初の三日間はテレビ点けっ放し インターネットは繋ぎっぱなしの状況で何もできませんでした。何かしなきゃいけないんだろうとは思うんですけれども、目の前に流れる映像にあまりにリアリティーが無いというか、自分の処理能力を超えていてですね 心は萎縮する一方でした。震災確か五日目だったと思います、漸く現地で本当に必要なものというリストがですね ネットを通じてこちらに届きました。その中に炭というのを見つけたんですね。家は炭は売るほどありますから、「今だ」って声が聞こえたんですね。残念ながら当時確か岩手県の方だったと思いますけど、既にもう避難所の方で凍死者が出ている。寒かったですよね、あの時期ね。お年寄りの方で凍死者が出ているという情報が入ってきてましたから、これは炭の出番だぞということで、ただ炭だけ持って行っても使えないですね。これは七輪が必要だということで、僕は炭はいっぱいあったんですけど、七輪は在庫しておりませんでしたので 若い仲間たった数人に、なんとか七輪を用意してくれないかという風に連絡をして、自分は普段出してる炭っていうのは七輪の大きさじゃないんですね、長い炭なんですね。長七輪用の炭だったので、僕は炭を切る作業をひとりでずっと朝からやっておりました。

とにかく急いで現地に行かないといけないということで、翌日までと期限を区切ったんですね。そしたら、たった一日で70個の七輪が集まりました。その70個も簡単に集まった七輪じゃないんですね。やっぱりホームセンター二つ三つ回って漸くひとつありましたという風にして届けてくれた若者が、何人もいました。つまり、僕が声をかけた数人がですね、またその仲間にどんどん声をかける形で、七輪を集めてくれたんですね。僕はありがたくてありがたくて、七輪を受け取る時にお礼を言おうと思ったらですね、逆にお礼を言われました。原さんありがとうございます。俺達私達実際何かしなきゃいけないと思っていたけれども、何をしていいのか分からなかった。その時に原さんが手を上げて具体的に七輪をくれ、七輪を集めてくれ具体的に初めて指示を出してくれた。だから僕達は動けました。七輪という形の、僕達私達の思いを届けて下さい。と言われたんですね。燃えるような思い出 2トントラックに炭を満載して、七輪も積んで積みきれずに軽自動車もそこに同行する形でですね、震災から十日後になりましたけれども、宮城県の石巻まで行って参りました。最初はですね大きな支援物資が、中継点みたいな大きな所があって、そこで最初の荷物を降ろしたんですけれども、実はあの 僕は運送業の人間ではないので、震災後十日に直接宮城県まで行くことは出来ないんですよね。というのは、東北自動車道が一般自動車通行禁止の状況でした。つまり支援物資を輸送するトラックしか、許可の得たトラックしか通れない状況だったんですね。僕は栃木県に運送業者の社長の知り合いがいることを思い出しまして、直ぐ電話をしました。携帯に繋がってですね、「原さん久しぶりです、今福島県のどこそこを通ってます」って言ったんですね。「原発大丈夫ですか?」って言ったんですね。そしたらそのツカモトさんという方がですね「家はプロの運送屋ですから、必要なものを必要な所に届けるのが仕事です」って言い切ってくれたんですね。この人だと思いました。この人なら頼める。2トントラックを栃木のその業者のとこまで行ってですね、炭を他の支援物資と一緒に8トン車に積み込みました。その時に本当は僕は行けるはずは無かったんですけれども、七輪がたった一日で70個集まったという思いを伝えました。そしたらそのツカモトさんが、原さんそりゃ行かなきゃいけないよね。まんまとこっちの術中に嵌りまして、僕はトラックの後ろに隠れるような形で乗せて頂いて、最前線まで行ってきました。最前線に行って見てきたことみなさんにお伝えしようと思うんですけれども、最初は先ほど言った通り、大々的にかなり大量の物資が分類されて送るような倉庫のような場所があったんですね。そこで、第一便を降ろしてたんですね。全部は降ろせませんから、その時に現地の代表の方が「この後石巻さ行くんだべ」って言ったんですね。その瞬間他の人の手がピタっと止まりました。

最初に入ったのは仙台だったんですね。仙台からそんなに遠くない所だったんですけれども、ピタっと手が止まったんですね。そうしたら、降ろしていた物をまた戻すような人が出てきたわけですね。だったら早く行ってやれよっていう話で、そっから段々被災地の最前線に近づいて行くんですけれども、繰り返しです。相当最前線まで行ったんですね。そしたらもう、明らかにライフラインは完全に寸断されています。気のみ気のままという状況が明らかに分かるのに、この後石巻に行くのか じゃぁうちはいいから早く石巻に行ってやれ、僕はラジオやテレビでは聞いていました。この災害時においても日本人は秩序正しい行動をするんだ聞いてました。実際目の前で見て目を疑いました。自分が同じ状況なら同じようにできるだろうか、次に支援物資が何時くるか補償が無いんですね。まだ自衛隊ですら全然行けてないような状況の時期に自分たちは行ってきましたので、そのような先の見えない状況の中で、本当に譲り合うことが出来るのだろうかと考えた時に、なにか出来ることがあると思ったことが、おこがましかったなと、反省をしました。なにかして上げるんじゃないと、させて頂くんだということを認識させて頂きました。

それでですね、いよいよですけれども 現地の方の代表者がどうしても見て行って欲しいという場所がありまして、それがこの石巻の門脇地区というところです。この辺が当時の一番被災が大きかった場所だそうです。見て頂ければ分かりますけれども、津波の被災地を聞いていたので何か流されていた、或いは瓦礫がいっぱいなのかなと思ったんですが、これ殆ど爆心地ですよね。イメージとしては、三回波が来たそうです。三回の波で沿岸部のコンビナートの重油タンクだとか車から流れ出たガソリン全部がぐちゃぐちゃになったとこになにかがショートして引火したそうです。僕が行ったときは震災から十日経っていましたけど、これでもきな臭いような臭いが未だまだ残っていました。現場に入って一番映像と違う、当たり前ですけど 映像と違ったなぁと思ったのは臭いですね。津波の被災地に入った瞬間、ちょっと塩がなにか腐った腐りかけたような臭いが鼻をつきましたね。この場合はきな臭いよな臭いだったんですけれども、僕は、天邪鬼かもしれないですけれども、この状況を見た瞬間にこれは福島だって、瞬時に思いました。何故ならば、このように誰が見ても被害の大きさが分かる場所というのは、自分がなんとかしなくても 支援の手が集中するだろうということが予測されたからです。放射能に関しては目に見えませんから、目に見えない被害の場所は自分が担当しようと決めました。つまり一番の被災地であるはずの福島に支援が行かないだろということがこの段階で予測が付きました。で何かしたい、どうしていいか分からないと思った時にですね、これも何の因果かここ2,3年講演で福島に呼んで頂くことがすごく多かったんですよね。すいません、なんで炭焼きのくせに講演って話なんですけど、こういう珍しい生き方をしているせいかですね、何年か前から話を聞かせて欲しいと声をかけて下さる方が、あっちこっちに出てきまして 一応本も何冊か出させて頂いている関係で、炭焼きのオフシーズンですね。丁度、6月半ばからオフシーズンに入っているんですけれども、オフシーズンはあっちこっちで、お話をさせて頂いております。

ここ2,3年ですね、ほんと不自然なくらい福島に呼ばれる機会がすごく増えてたんですね。ダントツで、ですから福島に友達がいっぱいできちゃったんですね。ですから、今回のことも真っ先に福島の友達の顔が次々に浮かびました。それもあったんですけれども、とにかく福島に行こうということで 直ぐに福島の現地の知り合いアベ君というんですけど、アベ君に直ぐに連絡をして、先ず行くから先ずガイガーカウンターだけは準備して欲しいという風にお願いをしました。4月の16日にですね、福島に入りまして 先ずなにか話しをしようと思ったんですけれども、行った瞬間に自分はもう話すことは無いなと思ったんですね。逆にみなさんの話を聞くべきだと 直感的に感じました。現場の空気で、聞いてみましたどうですかって、喋りましたね。やっぱり心に凄く蓋をしてるんですね。同じ環境にいる者同士の仲では、そんなこと言ってもしょうがねーだろって言われるのが関の山なんで、みなさん思っていることを口に出せないんですね。
僕みたいな圏外の人間ですから、なに言ってもいいと思ってもの凄くいろんなことを喋ってくれました。

あと印象的だったのが、磐越道を通って、福島入りしたんですけれども 反対車線は車がずっと続いていました。福島へ向かう車は僕の車だけっていう状況でした。僕はみんなが出て行くんだったら、自分は入って行こうということで 翌日ですねとにかく原発の状況を知りたいということで、ガイガーカウンタを携えてアベ君と二人で原発の近く迄行ってきました。次はその映像ですけれども、これはとてもちょっと皮肉なんですけど、桜が満開でしたね。ゴーストタウンです。原子力明るい未来のエネルギーってなってますけど、桜の気持ちになった時に切なくて切なくて、泣きたい気持ちになりました。例年ならばこの季節はですね、桜の木の下でみんなが賑やかに飲んだり食べたり歌ったり、楽しい空気だったろうに 今年は誰も来ないなと思っているんじゃないかと、そんな風に思ったら居た堪れない気持ちになりました。たったひとつ笑ってしまうような話なんですけれども、ガイガーカウンタが手に入ったということで、非常に安心をしきっていたんですけれども 数値がですね、いくつからヤバイのかとか全然知らなかったんですね。近づくにつれ、おいアベ君に「数値はどうなってんだ」「上がってます」「それはどうなんだ」「どうなんですかね」って言いながら、結論から言うと2回検問を突破してですね、原発の西門迄行きました。その時に計測した最大値が確か72マイクロシーベルト/hだったと思いますけれども、これは良く分かんないんで、帰って計算してみたら 松本市の普段の平常時の放射能の量の1800倍の量だったですね。空気中だったので、瓦礫なんかはもっと線量高かったと思います。途中の状況です。

で、なんでそんな状況の時に原発まで行ったんだってことに関しては、賛否両論がありまして 自分自身もそれは覚悟で行ったんですけれども、ともかく現場の状況が知りたいというのがひとつと、もうひとつは これは精神的な話になってしまうかも知れないんですけれども、僕は自然を相手にしてる人間だからか分からないんですけれども、目に見えない物にも必ず意識はあるはずだと信じる人間です。ですから、自分が原発の立場になった時にどうかなって思っちゃったんですよね。つまり昨日、一昨日までは、それこそ 明るい未来のエネルギーだ、国のエネルギーだ 夢のエネルギーだって言われていて、いざ爆発した瞬間 みんな手のひらをかえしたように、悪者にする論調があって、昨日までお世話になってたじゃないかっていう、みんなが逃げるんだったら 俺は抱きしめに行ってやるぜっていうような、本当の正直な気持ちです。頭おかしいじゃないかと思われるかもしれませんけど。そういうようなイメージで原発に近づいてきました。
結果的に西門迄行けた事は自分としては導かれたんだなと思いました。なぜならばその五日後に20㎞圏内が完全に封鎖されたんですね。一週間遅ければ自分は行けなかったという状況でした。松本に帰ってきてからが辛かったです。やはり大阪のみなさんそうかもしれませんが、温度差ですね。実際被災地に行った人間と何も変わらない自分の帰ってきた町の現実っていうものに凄く違和感を感じて、なにがしたいか分かんないので、またアベ君に電話をしました。「おいアベ、何か出来ること無いかな。出来ることあったら言ってくれよ」って言ったんですね。そしたらこう言ってくれました。
「原さん、申し訳ないけどできること無いです。原発も並みじゃありませんし。ただ一つだけお願いがあります。福島のこと忘れないでください。」って言われたんです。忘れるもんかって思いました。この瞬間決めたんです。何ができるか分からないけれども、福島に通い続けようと 必ず通い続けて行く中で道が見えてくるはずだと、その時に決めたんです。
周りは反対しました。なんで今危ない時期に福島へ通うんだ。アホか頭がおかしいんじゃないかって言われましたけれども、僕はもう自分はとにかく行くんだと決めましたから、通い続けたんですね。まず通おうと決めた時にですね、僕の人生の師匠と呼んでるんですけども、渡辺一夫さんという方がですね 須賀川というところにいらっしゃいまして、とにかくその一夫さんに会いに行こうということで、会いに行ったんですね。一夫さんというのは素晴らしい方で、何が凄いかというとですね、個人の持ち山が25町歩 25ヘクタールあるんですけども、それを20年間かけてコツコツ、コツコツ
原氏:コツコツ、コツコツ手入れをして素晴らしい森にしてそれをしかも全部開放しているんですね。
どなたでも何時でも来て下さいと、とにかくスケールのでっかい男で、10年前に東京で林業の集まりがあった時に、その方にお会いした時に一目ぼれして、この人自分の師匠にしようということで 今回師匠の所に行って来ました。これが僕の師匠の渡辺一夫さんです。後ろがですね、みなさん見ていただければ分かる、写真からでも分かると思いますけど、これ以上木があると鬱蒼としちゃうし、これ以上無いと淋しいという、絶妙なバランスで間伐をずっと続けて森づくりをやってきた方です。本人、響きの森と名付けてですねぇ。森の中に舞台作っちゃったんですね。舞台作って劇団は呼ぶは、バンドは呼ぶはという風に森を遊び場にしてしまっている、なかなかいかした68歳の方なんですけれども、これがその小屋なんですけれども、ここを宿泊に 宿泊できるような状況になっています。これがですね、世界初のバリヤフリーツリーハウスと言ってですね、凄いですよ、車椅子でも 分かりますよね,橋みたいのが見えますよね、車椅子でも入って行けるツリーハウスというのを作って、半ばちょっと呆れた感じで追いかけてますけど、とにかく次々に自分を語るんですけれども、とにかく悔しいと、今回は痛恨の極みだと言ってました。もしこの原発の事故が無ければ、山菜祭りをやるつもりだったらしいですね、茸も全部駄目になったと、伸ちゃん悔しくて仕方ないんだって話をしていました。

実はですね、山田さんのことを知ったのが、渡辺さんからだったんですね。「伸ちゃん、原発に入って行く特攻隊を知ってるか?」なんて過激ことを言われまして「なんですかそれ?」これこれこういう人達がいるって聞いたときに僕はやっぱ魂が震えました。とにかく山田さんに会いたいということで、山田さんに会い行きました。
以来多分1ヵ月の間に5回ぐらいストーカーの様に、何度も、会いに行って自分自身できることは無いだろかと考えた時にですね、丁度6月の半ばで炭焼きのシーズンが終わった時に、講演の予定が全国で何箇所か決まっていたので、直ぐに主催者に電話をして、当時はもう少し長い名前でしたけど、福島原発行動隊の話を講演の中でさせて貰えないかという話をしたら、みなさん本当に快く二つ返事で是非お願いしますという風に言って下さいました。現在迄にですね、大分、沖縄 静岡 山梨 東京 岐阜 愛知 長野 滋賀 新潟 福島ということで みなさんのお気持ちを頂きながら、回らせて頂いて、原発行動隊の話をさせて頂いてきました。話をするだけでは、一方通行になってしまいますので、メッセージうちわプロジェクトというのを考えました。これは若い仲間からアイディアを貰ったんですけれども、僕は講演に行った先でですね、原発行動隊の話をします。それで、講演会場に無地の団扇を持って行ってですね、原発行動隊に対して何かメッセージを届けたいという方が居たら、是非とも書いてくださいと、郵送はしません、直接山田さんに届けますというようなお話をしてメッセージを書いて頂いてきました。まあ本当に認知度が無いんですね。最近になって漸く100人の会場で4,5人多いときは10人も上がらないですね、それでも 最初なんて全く知られていませんでした。でも話をしている内に若い女性なんか本当に、聞いてるリアルタイムで涙を流される方も何人もいるような状況でした。

今回、今日はですね、そのメッセージうちわに書いて貰ったメッセージを幾つか読み上げさせて頂きたいと思います。お聞きください。「私は東北生まれです。東北は美しい山と河、海が自慢です。私はその中で育ちました。そんな美しい東北が早く元のような姿に戻って欲しい、みなさん本当にがんばってください。」
「山田さん達は私達日本人全員のヒーローです。顔も知らないけど、自分のおじいちゃんだと思って応援しています。大好きです。私は日本が大好きです。その日本を命懸けで守ってくださろうとする行動隊の覚悟に涙が出ます、ありがとうございます。日本が大好きなくらい、行動隊の皆さん達も大好きです。自ら進んで危険の中に飛び込む勇気と、日本を救う心を私の子供にも孫にも伝えてゆきます。帰ってきてください。」
長野県の三人の母より、「日本の未来のために命を使っているみなさまに感謝します。私は教師です。未来の日本を作って行く子供達が日本を誇りに思える教育をして参ります。みなさまの命がより輝きますように。ありがとうございます。あなた方のような大人になりたい、そしてそんな大人を育てることが私の役割と感じました。」
8歳の子の母、時々保育士、「今の日本を救って下さったのはみなさんです。ありがとうございます。本当はゆっくりして頂くところなのに、これからの日本の為に大変な仕事をして頂きありがとうございます。みなさんが作ってくださった日本を愛して大切にしてゆきます。私は福島市出身です。今迄育ったお世話になった、小学校中学校高校と全ての土地が掘り返されました。福島は今でも風評被害に会っています。みなさまの活動を知りとても嬉しいです。仕事の都合で今は東京にいます。それでも福島が大好きです。福島に帰りたい。」

このようなメッセージの後ですね、実は僕2日前は、福島県の郡山というところに行って、行動隊の話をさせて頂きました。2日前に書いて頂いたメッセージを読ませて頂きます。やっぱり他の県で書いて頂くのと福島県内で書いて頂くのでは全然違いますね。メッセージの内容が、「決死隊のみなさまへ」、決死隊という呼び方も まあいろいろあれですけど。「福島より感謝を込めて、毎日毎日祈ってます。福島のことを考えて下さって本当にありがとうございます。私は福島に生まれ育ち、原発の危険を感じながらも故郷を離れられずにいます。私にとって福島は唯一の古里なんです。福島の為にできること自分でも本気で取り組んで行きます。一緒に頑張りましょう。」
福島大学4年生、「私の生まれた場所、自然が美しく食べ物が美味しいとってもとっても大切な福島。今はとても不安です。でも、沢山の人達の行動にとても感動しました。私も私なりの行動をしてゆきます。本当にありがとうございます。」
郡山市、「行動隊のみなさまへ、原発避難民です。皆様の熱い思いに感謝すると共に申し訳なく思います。家を残すしかなく、落ち込んでいる両親がはやく富岡町に戻れることを願い、その為にも一日も早い原発の収束を願うばかりです。応援してます。ありがとうございます。」
「行動隊のみなさまへ、前例の無いできごとで 福島にいてもどうしたら良いのか分かりませんでしたが、みなさまの話を聞いてできること小さなことからでも、実践したいと思いました。危険な中でもお体に気を付けて下さい。」これがまあ2日前に、福島の郡山で書いてもらったメッセージです。

僕自身が福島へ関わって行こうと決めた時、余りにの問題の大きさに本当に何をどうしていいのか分かりませんでした。その中で僕に唯一希望を与えてくれたのが、その時山田さんだったんですね、僕にとって。
どんなに夢を語っても励ましても原発が収束しない限り本当にその夢が叶うわけ無いよなって、これを置いて今優先すべきことは無いよな、っていうところに、初めて僕自身の中で、本当に確信が持てたんですよね。
慰めではない本当に未来に繋がる行動それはもうとにかく原発を止めることだと、ですから僕は未だ行動隊に入る為には21年まだありますけど、広報活動ということで勝手に、広報部長は内藤さんという素晴らしい方がいるんで、僕は勝手に広報隊長を名乗ってですね、全国を回らさせて頂いてます。

どうして自分がこの活動に思い入れが強いのかなって考えた時にですね、二つあるなってことに最近気付きました。ひとつは先ほどみなさまに申し上げた通り、僕は14歳の時に古里を失っているんですね。原発ででは無いですけど、開発によって失いました。日本が豊かになってゆく丁度高度経済成長期に僕は自分としての成長期もあって、どんどん、どんどん物は増えてゆく 親の所得も増えてゆくだけども、大切な大切な自然が無くなってゆく。
そういうものを肌で感じて来た世代です。ですから、福島のみなさんと同じにしたら失礼かもしれませんが、僕にも古里が無いんです。ですから古里を失った方の苦しみというものが、全く分からないわけでは無いんです。
ですから凄く思い入れが強いんですね、みなさんに対して。それがひとつ。

もうひとつ 22歳の若造だった自分、凄く生意気だったんですけど、自分に本当の生き方を示してくれたのが、伊沢師匠でした。炭焼きを教えてくれた伊沢師匠。大正15年生まれの方でした。第二次大戦を経験して、
最後シベリアに3年間抑留されるという経験もされた方でした。僕にとっては生きるというのは、美しく生きることだ。僕はそう思いたい人間です。その中で初めて出会った、本物の大人でした。格好良かったんですね。
惚れちゃったわけです。その時に、この数十年かは分かりませんけれども、日本は、日本人は僕も含めてです、
本当に大切なものを何か置き去りにして、それと引き換えに経済的に成長してきたのではなかろうか、
そういう風な思いがありました。ですから大学を出て炭焼きをやるって言ったときに、本当にバカにされたんですね。わざわざ大学迄出してもらってそんな大変なことやんなくたって、幾らだってもっと安定して安心して暮らせるような道があるだろう。でも、生きるってそういうことかと思ったんですよね。
生きるって、日々自分の力で生き抜いて行く事じゃないか、生意気ですけど僕はそう思って16年間炭焼きを続けて来ました。その生き方、残念ながら 2年前に僕の大好きだった伊沢師匠は亡くなったんですけれども、
僕は山田さんにお会いした時に、また師匠が現れてくれたなって思いました。本当に命をかけて次の世代に、
何か繋げて行くということは、口では言うことはできるかもしれないですけど、本当にそれをやろうというのは、並大抵のことじゃないと思っています。僕も山田さんから出来る限り多くのことを学びながら、世代を繋げたいんですね。伊沢師匠の口癖が、なにか言おうとすると必ず「こんなこと言ったら今の若い衆には笑われるかもしれねーが」って言うんですよ。笑いませんって僕はいつでも心の中で思ってました。その後に続く言葉は本当に宝物のような知恵に満ちた言葉だったんですね。この言葉を次の世代に伝えてゆかなかったら何の日本人かって思いました。ですから今僕は、毎日が命がすごく燃え滾っている、それを感じています。人間の命はそんな柔じゃないと思っています。非常時にこそスイッチが入るようにできてるんじゃないかと、僕自身は思っています。

時間になりますので、最後にですね、ごめんなさい、こちらのミスで、今日2枚ほど、お配りするべきチラシを、受付に置いてきませんでした。さっき急いで置いてきましたので、帰りがけに是非是非持って行ってください。
後2回ほど、2回ほどというか、まだずっと講演はあるんですけれども、みなさんにお伝えしたい講演がふたつほどあります。9月19日これ福島市で講演させて頂くんですけれども、タイトルが「輝いて生きる、次の世代に生きる本当に大切なこと」というタイトルで、福島でやらせて頂ます。先ほど「ACTION」の話の中でもありましたけれども、何も瓦礫撤去と除染だけが福島支援ではありません。福島に行って頂いて、泊まって頂いて、福島へお金を落として頂くことこれも、立派な福島支援です。実は今日の着物はですね会津木綿なんですよね。
僕被災してから福島通う中で買ってきました。凄く喜ばれました、呉服屋のおばあちゃんにありがとうございます。ありがとうございます。それも立派な支援です。ですから、僕の話は序に聞いて頂いて結構です。
とにかく福島へ行って、お金を落として頂きたい、その思いでこのチラシまた受付のところにおいております。
後もうひとつこれ最後です。10月の1日にですね、明治大学 東京の明治大学で、どういうわけだかですね、
防衛省の上から4番目に偉い方、柴田雄三さん素晴らしい方です。この方とコラボレーションで講演をさせて頂きます。国益という視点から、海と山を見るということで 第二部の山の話の中で行動隊の話もさせて頂きます。
日本人にとって山とは何か森とは何かというようなとこも合わせてお伝えさせて頂きたいという風に思っております。

ごめんなさい、本当に最後の最後です。メッセージうちわプロジェクトに関しては、全部みなさんのお気持ちだけでやって今迄続いてきました。本当にありがたいことです。今日もですね、ちょっと生意気ですけど、チラシの前のところ、後ろのところに、支援金の箱を置いておりますので、もしそこに入れて頂けたら、また次の場所に行くことができます。うちわも買うことができます。でももう うちわプロジェクトぼちぼち打ち切ろうと思っています。季節が段々これから涼しくなるからですね、次に考えたのがこれですね。みなさん分かりますかねこれ、
先日これ山田さんにやって頂いて大騒ぎになったという、これ分かりますね、これからですね、メッセージうちわを打ち切ってですね、メッセージ褌プロジェクトを始めます。これちゃんと大和魂とか書いてくれて、素晴らしいんですけど 山梨今日も来てくれていると思うんですけど、山梨にですね仮称褌部というですね、乙女の隊ですよ、女性ですよ。女性がですね、布で買ってきて、ひとつひとつ手作りで褌を作ってんですね。僕ほんとこれ締めて入って行きたいですね。原発にね。男ならそういう気持ちになると思うんですよ。これがまたね、洒落になんないぐらい一枚コストかかるんですよ。ですからこの褌を一枚でも、より多く行動隊に届ける為にみなさんのお気持ち頂けたらと思います。少々オーヴァーしましたけど、僕の拙い話これで終わらせて頂きたいと思います。ご静聴ありがとうございました。

時田氏:原さんありがとうございました。では、後半最後のご講演になりますが 今の原さんのご紹介もありましたけれども、特に海外メディアでの注目度の高い、福島原発行動隊理事長の山田恭暉さんに「福島原発行動隊の呼びかけと提案」というタイトルで、お話し頂きます。では山田さんお願いします。

山田理事長:みなさん、こんにちは。福島原発行動隊という名前で7月7日に一般社団法人の登録をしました。今、原さんから大変熱い想いをいろいろお話頂きましたが、このプロジェクト自体は、4月の6日から8日頃に最初の呼びかけをしてスタートしたものですが、私が最初に呼びかけた時から見ると、かなりいろいろ変わった展開が出てきて、ある意味で私を遥かに乗り越えて、全体が進んでいるという風に感じています。
そういうこともあって、実は最初の呼びかけた時からちょっと変えた形で社団法人を立ち上げたところで、内容を幾つか変えてきてます。ひとつは最初にスタートした4月の段階では福島第一原発が何時爆発をもう一度するかということがみんなの非常に大きな不安だったということもあって、最初の名前は福島原発暴発阻止行動プロジェクトということなんですが、暴発阻止ってのが必ずしも緊急の問題でも無くなった、ということも含めてこれが7月以降新しく作り変えた呼びかけ文です。

まず第一は三つの目標が今福島原発についてはある。ひとつは安定した冷温停止をして、廃炉の道を確立すること。このことの意味というのは実はみなさん、東電或いは政府の発表をみてみると、既に非常にしっかりした設備が出来ているという感じを持たないことも無いと思うんですが、実際に現場で設備を見てみると、これは応急処置の施設をひとまず作った、これが1年2年動くような設備では到底ございません。ロードマップのステップ1、ステップ2で作られる設備というのは全て仮設設備で、長期に亘って安定した設備を作るということはこれからの仕事です。そういう意味で今迄非常に大変な仕事を、現場のみなさんがやってこられましたけれどもある意味ではそれ以上に大変な仕事が残っているんだということを、理解しておかなければならないと思います。

もうひとつは環境への放射性物質の放出を止めること、これは既に一号炉についてカバーをするということで、鉄骨ができたっていう報道が今朝の新聞か昨日の夕刊に出ていたと思いますが、これもやはり仮設設備でしか無い。あの鉄骨の上にプラスチックのシートを被せるということになってますが、そんなもので何十年という期間もたせることは到底できません。

それから3番目にCとして書いた汚染水の処理による高濃度汚染汚泥、所謂スラッジと言われているものですが、或いは瓦礫、非常に汚染された瓦礫を管理保管しなければいけない。現在では、汚染されたスラッジに近づくことも出来ないという風な状況になっておりますし、それをどのように保管するか、これは ご存知の様に半減期の長い放射性物質が含まれてますから、何十年という単位で管理保管をしなければならない。それをどのようにするかということに付いて、未だ案もできていないという状況です。こういう意味で10年を超える、数十年という単位の仕事をやる必要があるんだということです。しかもこれは、この仕事は三番目に大きな3で書いてありますように、東電がする仕事では無いのではないかと、いうのが私共の大きなテーマです。
この点に付いては後ほど、もう少し詳しく説明します。

こういうことをする為に、私達高齢者が若い人がやる仕事を少しでも代替して、将来のある若い人達の被曝を少しでも減らそうということが私達の目的です。提案です。その為に行動隊員として応募して下さい。賛助会員として応援をして下さい。更に我々の活動を支援する寄付をお願いします。これが私達の呼びかけの、基本的な内容です。こういう呼びかけをこれまでの経過、呼びかけに関わるこれまでの経過をご紹介しますと、3月に事故があったのはみなさんご存知の通りですが、このひと月後、約ひと月後 25日後ぐらいに、これまでに私の友人達と相談をして、呼びかけの文を4月の始めに呼びかけました。その後いろいろな経緯があって、東電の役員と直接5月の始め連休中にお会いするとか、5月の最後に細野当時補佐官と会談をするとか、いう風なことが次々起こりました。起こったというか やる機会を得られまして、7月の12日に、我々行動隊の代表が5人福島第一原発の現場を視察して来ています。この時の写真が会場の入り口でもお手元に取って頂いた、ビラの表紙に付いてる写真で、誰が誰だか分からない顔してますけれども その時にいろいろ現場で見、考えたことを元にして8月の始めに政府に対して、東電に対してかなり思い切った提案をしています。

この内容について今日少し詳しくご説明したいと思います。かなり日本の社会に取って或いは、産業にとって抜本的な大きな問題を提起してるつもりでいます。この間さまざまな呼びかけをし、国内、海外で報道機関がいろいろ取り上げて下さってます。しかしながら先ほど原さんのお話にもありました様に、海外からの注目はかなり強くありまして みなさんご存知のアメリカのニューヨーク・タイムズであったり、CNNだったり、BBCだったり、The Daily Telegraphだったり、或いは France soirだったり様々なテレビ新聞が海外では取り上げてくれたんですが、日本では雑誌類では幾つか取り上げて頂いております。週刊誌で取り上げてくれて、最近ではご覧頂いた方はいらっしゃるかと思いますが、女性自身が長々と記事を書いたりしてくれてますが、讀賣、朝日、毎日という三大紙は朝刊で取り上げるということは少なくともしない。NHKは取材に来るけれども報道はしない。という状況が続いています。この辺のところがどういうことなのかというのは多分、後のご説明をさせて頂くとお分かり頂けるであろうという風に思います。政治、国会議員に対しての働きかけは、民主党の牧山ひろえ参議院議員が非常に力を入れて下さって、細野さん、海江田さん 当時海江田経済産業大臣とかいろいろな方にお会いしたりするチャンスは作って頂いてますが、未だ政治を実際に動かすというとこころ迄は行ききっていないという風に思います。

これからどんな風にすべきかというような事について、みなさまにお願いを後ほどしたいと思います。
現時点では、行動隊の体制を整備することに大きな力を注ぎたいという風に考えてやっています。これ迄のところ我々に協力をして下さると仰っている方は、ちょっと古いデータで8月29日のデータが、この所に書いてございますが、現在では行動隊員が530人ぐらい 賛同者が1500人超、応援金 寄付カンパが1000万強になっております。これからはちょっと色んな事がございますが、ともかく一日も早く、我々が何らかの福島第一原発に関わる作業にタッチするという風なことをやりながら、次のステップが実現する為の活動をいろいろやって行きたいと考えております。詳しいことは改めて後ほどご説明します。これは社団法人を作りましたので、その定款の主な項目です。現在直ぐにやらなければいけないこと、将来に亘ってやること、両方共考え我々の社団法人は、やはり10年という単位の仕事を継続してやって行こうという風に考えています。

先ず直ぐにやろうということで提案していることが、モニタリングと言われていることです。現在、所謂20㎞圏内で、継続的に汚染の状況を、計測し続けてる。週にいっぺん空間線量を測り、月にいっぺん土等のサンプルを取り、或いは大気中の浮遊粉塵を調べる、ということがやられておりますが これは実は現地、原子力災害対策本部の現地対策本部というのがございまして、この組織の中のひとつに放射線班があります。
ここの調整、或いは指示に従って東京電力のチーム、それから、福島県庁のチームがモニタリングをやってます。これは何れも東京電力の場合は他の電力会社からの応援者がやっている仕事、福島県庁の場合は他の都道府県の県庁から応援に来ている人達がやっている仕事で、これはまた、この仕事も数十年に亘ってやらなければならない仕事ですが、何時までも応援でやっているわけにはいかないだろうということで、我々が直ぐにでも肩代わりをしようということでやってます。この準備の為に我々としては、モニタリングチームを既にスタートをして、実は一昨日東電がJヴィレッジでやっております、計測作業者の訓練研修に我々からも派遣している。これも東電から極めて好意的に研修生の受け入れをしてもらってスタートしてます。これについては近々具体的な政府交渉をして行くつもりです。これは東電が発表しているモニタリングの内容についての紹介ですが、ここの右の下にあるような、この写真に見られるような 5人のチームで仕事をしていると、いうことがお分かり頂けると思います。
この提案がこのページにある第一項です。

それともう一つ、第二項としてはやはり周辺20㎞圏内原発内を含んで、高濃度の汚染地域の瓦礫処理、除染の
作業を我々が手伝おうということを提案しております。これは現実には未だ始まっていない仕事、構内は別にして20㎞圏内では、始まっていない仕事ですが、例えば南相馬では汚染が激しく無いところは、地域の建設業者がいろいろ作業をしてくれているようですが、汚染の激しいところが全く手付かずになっている、という問題がございます。更に20㎞圏内ではこれから、除染瓦礫の処理等々やって行かなければならないので、この点についても我々のメンバーの中で免許保持者或いは重機等を含めて用意して作業に参加する、ということをしたいと考えています。これも近々関係者と交渉を始めるつもりでおります。

この辺が当面の仕事ですが、ご覧頂いて分かるように、原発本体の収束の作業に未だ入る状況にはなってはいません。これから、一体どういう問題を含んでいるのか、ということに付いて少し議論をしたいと思います。
この図は放射線被曝を管理する為に、所謂放射線被曝手帳というものが作業者に発行されて、それを中心にして 作業者の被曝管理をするという体制が現在日本の制度としてできてるわけですが、どういう事をやっているかと申しますと、中央登録センターというのがございまして、ここが原子力施設、設備で働く作業者の被曝量のデータを一括管理しています。このセンターに放射線(被曝)管理手帳の発行の登録の申請をすると、その番号を貰えて、手帳発行機関が手帳を発行してくれるんですが、これの申請は作業者を雇用した雇用主、この一番右にある雇用主下請け作業社だったり孫受けの会社だったり、こういう個々の会社が申請をして、手帳を発行してくれる。
原子力施設というのは原発も含めて原子力設備ですが、これが日々の作業で被曝した量を、登録センターに通知すると同時に この作業者を雇用している会社に情報を提供する。そうすると手帳を持ってるひとり一人は自分の被曝量が分かるというこういうことになっているんですが、実は最大被曝量、法律で許容された最大被曝量を超えないような管理はこの管理者がやりますが、それ以上のことは管理者には責任が無いし、雇用主も最大被曝量を超えないように作業者を用意するということが要求されますが、それ以上の責任はありません。更に作業者がこの雇用主を離れた、つまり解雇された場合にその作業者が、どこでどうしているかということについて一切の管理をする体制が出来ていないということが問題です。この結果としてもしある作業者が、福島第一原発で限度一杯の被曝をしてしまうと、その後を含めて5年間作業ができないという風な状態が起こってしまう、ということがあります。

更に大きな問題として、作業者がここで示してますように実際には下請け孫受けという非常に小さな単位で、雇用されておりますので東電からはこの作業者の顔は見えない、つまり個々の作業者がどこでどのような、作業をしているのかということが分からないという状態になっています。その為に東電と実際話しをしてみると、作業者が 将来足りると考えるかというと、足りると言ったり足りないかもしれないと言ったり、或いは分からないと言ったりということで、実際にはこの全国の原子力施設の中で、作業者がどのように配置され、どのように将来必要になるのかということについて、誰も知らないという状態が現在起こっています。こういう中に我々高齢者が作業をしたい、という風に言っても実際に入れるのは、今の状態で入れるのはこういうレベルのところでしか入れませんから、そういう下請け、孫受け、ひ孫受けの所で、どういう風な配置をして我々高齢者を有効に使うかということについては、到底考えることができない。このことが東京電力が我々に対して、一定の好意的の反応は示しながら 直ぐに受け入れることができないということの大きな原因であろうという風に考えます。そういうことから考えますと、私共が提案しているような高齢者をこの原発の収束の作業に援用して欲しいことに付いて、東電が拒否することもできないし 受け入れることもできないという状況がお分かり頂けると思います。

そういうことを乗り越える為に、この二番で書いてありますような、被曝量或いは年齢を考慮した作業者の最適
配置が可能な仕組みを作るということがどうしても必要だと、このことは現在の契約の体系そのものを、変更してゆくこと 或いは、先ほど中央登録センターで被曝のデータを管理していると申しましたけれども、それ以上に 将来の被曝予測まで含めた全国をカバーするコンピュータデータベースを構築するということがどうしても必要だと、私は思います。その為には今日明日できる仕事じゃなくて、5年10年と時間をかけないとこの仕事はできないであろうと、しかもこのことは、福島第一原発の収束の仕事が、10年20年の単位で必要だということを考えると、かなり決定的に重要な問題ではないかという風に考えます。更にそのことによって、3番に書いておりますような、原発の被爆者の仕事が終わった後の長期に亘る健康管理体制を作るということも出来るようになると、
それがない限り安心して仕事をすることができない、と言えるのでは無いでしょうか。

もうひとつ大事な、三番目に大事なことというのは、この事故の収束というのは、東京電力の社内組織である福島第一安定化センターという組織が中心になってやっております。その福島第一安定化センターに対して、政府がこうすべし ああすべしという指示をし、或いは福島第一安定化センターの報告を、政府が国民に公開しているという風なことになっているのですが、考えてみて東京電力という会社は、電気を作りその電気をユーザーに配電する、売るというのが本来の仕事であって、設備を造る、或いは事故の収束をするということを、本来の仕事とする会社ではありません。このことの非常に大きな問題というのは、電気を作る或いは私が現役の時に勤めていた鉄鋼メーカー等もそうですが、メーカーというのは日々同じ仕事をする。毎日毎日同じ仕事をするというのが、原則です。毎日違う仕事をしていたんでは、不安定でしょうがないわけです。ですから人々の考え方も、社内の体制も社内の風土も或いは経理のシステム、管理のシステム全て、毎日同じ仕事をするということを原則にして、作られています。それに対して設備を造る或いは事故の収束をするというふうなことは、毎日違う仕事をするというわけです。毎日違う人が違うことを違う形でやらなければならない。これを管理するという管理の仕方はお金の計算、経理計算も経理の体系も全く違うし、社員の体質も社風も全く違うものでなければできない、ということです。品質管理ひとつ取っても、全く違います。

そういう意味で、これ迄の応急措置は現場を一番良く知ってる東電がやるということに付いて仕方が無いのでしょうが、今後の本格的な何十年という安定した運転ができるような設備を建設するという仕事を、東電のようなオペレーションの会社にやらせることは本質的に問題だ、という風に考えます。そういう意味で総合的な国家プロジェクト、この中には設備メーカー或いはゼネコン出身のメンバー、更にはプロジェクトマネージャーという非常に特殊な日々違った仕事をするプロジェクトを管理する専門の技術者を配置するような国家プロジェクトにすべし、というようなことを考えています、と提案しています。

この様な提案を幾つかしている中で、実はこのロードマップは先月の17日に改定された最新のものですが、一番右の下に赤く出てる要員の計画的育成配置を実施というのを新しくやりますと、やっと言ってきました。我々が8月3日にデータベースをちゃんと作り要因の配置をきちっと計画的にやらなきゃいけないと言ったことが、どうやら少しは考えられたのではないかと。これについても実は内容を調べてみますと、少し丁寧に追いかけてみますとまだまだ具体的な計画にはなっておらず、どこまでやれるか疑問ですが、それなりに東電或いは政府も、我々の考えを考えてくれているのではないかという風にも思えます。

更にこれも8月24日の新聞記事ですが、除染作業を国がやるということを漸く言い出してまだ除染の段階でしかありませんが、本体のことでは無いですがどうやら地方自治体に任せたり、或いは東電に任せたりするのではなくて国が前面に立ってという議論が漸く起こり出したかなという風に思います。
細野大臣が新しくもう一度再任されて、福島第一原発に廃棄物を集中管理、中間保存という言い方をしてますけど、中間保管の場所に第一原発を使うという風な話をし出したということも、多分、第一原発自体が国家管理の対象になるという前触れでは無いかという風に期待しています。
こんな形で少しずつ我々の主張が、或いは提案が国の方針の中に入ってきてるんじゃないかとという風には思っているのですが、何れにせよ先ほど申しましたように、最初の動機は極めて単純で、ある意味で非常に合理的だけれども、これを実現するには、非常に大きな障害がある、或いは今の日本の産業の体質、体制、或いは国家の体制の中では決して容易なことでは無い。5年10年という長い時間をかけながら根気強く作り上げていかなければならない仕事ではないかという風に考えます。しかもこのことが多分日本のある意味では、いろんな意味での体質、 弱点を克服するひとつの大きなきっかけになりうる可能性もあるかもしれない、という風に考えております。

そういう意味で、スタートした時、 私が呼びかけをした時には、かなり短い時間でプロジェクトを閉めるということを考えてもいたんですが、現在の状況ではかなりの長い時間、10年という単位でプロジェクトを継続し、 我々の次の世代がこのプロジェクトを継承してやって頂かないと日本のこの福島第一原発の後の処理ができないという風なことでは無いかという風に考えています。

最後にこのプロジェクトの非常に大きな特徴として、結果として明らかになってきたこと、二つお話しして確認を頂きたいと思います。ひとつは我々のプロジェクトは福島原発事故の収束の為に高齢者が若いものに代わって仕事を引き受けようと、少しでも引き受けようということが共通のテーマであって、それを何の為に、或いはどういう考え方で、どういう気持ちでやるのか、これは前回の大阪の集会の時に、理念は何だという議論を提起されて、 大議論をさせて頂いて明らかになったことですが、理念を共有するのではなくて、理念はひとり一人が自分の心の中に非常に大切に持っているものであり、且つそれが全員違う。
違う理念に基づきながらひとつの行動を一緒にやろうとそういう組織だと、これは正にアメーバ組織だという風に私は思いますが、こういう組織は決して世の中に多くは無いと思うんです。しかし、これが我々の非常に大事なところで、ひとり一人の気持ちをひとり一人が大切にして進んで行きたい。これが先ほどの原さんのお話の中で、 うちわがいろんな言葉で満たされている、それがみんなバラバラだということに価値があるという風に考えます。この点をみなさまと共有したい。

それからその事の結果でもあるのですが、原発に賛成か反対かということは、一切議論はしない。ひとり一人が
原発についてどう考えるか、ということについては非常に重要な問題ですから、これも真剣に考えなければいけないし「原発どうでもいいよ」と言ってこういうことをするのはどうかという風に思いますが、行動隊としては原発賛成か反対かということについての議論は一切しないということを、共通の了解事項として先に進めたいと思います。どうかこういう思い、我々のこのテーマを 日本の隅々まで、広く伝えることにみなさんのお力をお借りしたいと思います。今迄、主としてインターネットなどを通じて訴えを広めてきてますけれども、特に高齢者の方々、更に所謂、職人と云われる腕に力を持ってる方々がインターネットを覗いてるケースは非常に少ない、ということが現実です。そういう意味でもどうかみなさまひとり一人が、お近くの方にお声を掛けていただくということを通じて、我々の訴えを広め、政府への力を強めて頂きたいと思います。

もうひとつは日本だけでは無くて、世界で非常に注目を集めているということは先ほど申し上げた通りですが、 多分日本の政府に対する働きかけというのも、海外から海外を通じて一回りしてやってくるということも充分あり得る、そういう意味で海外のお友達が居られたら、この我々の訴えを広めて頂き、例えばその国の日本大使館に ひと言声をかけてもらう、そういうことも含めていろんな手があると思うのですが、訴えを世界に広めて頂くということを是非お願いしたいと思います。ご静聴ありがとうございました。

時田氏:山田さんありがとうございました。それでは引き続きまして、パネルディスカッションの準備を致します。その間、会場の上スタッフが回りますので、原さんと山田さんのご質問がある場合は、手渡して頂けるようお願い致します。

山崎教授:他の方も仰ってましたけど、やはり現地と関西とを比べると、随分と関西はのんびりしてるなぁと感じが致します。関電の方には怒られちゃうかもしれませんけど、まさしくこれが東電で良かったんで、関電の美浜か大飯で起こってたら、大飯は原電ですかね、それこそ大阪、京都は完全に避難地域になっている可能性があるわけですね。私、実は授業で、資源とエネルギーって科目を持ってまして、今迄ずっと10年間ぐらい、最後のレポートに「関電の美浜原発で、シビアアクシデントがあった時に君達はどうしますか」というのをレポートの課題に付けました。正しくそれが、現実の話になっちゃったんですよね。学生さんはそれなりに知識はあるんですけれども、腹の中では考えてはいても正しくどうしたらいいのか分からないというような、レポートの答えは滅茶苦茶なんですけど、当然今滅茶苦茶なことが起こってるんですよね。なんとかこれを整理していかないといけないということだと思います。ご質問の中で先走っちゃいますけれども、ひとつ感じるのは、じゃぁ「関西でなにができるのか?」金を出すことしかできません。それからもうひとつは、放射性物質を引き受けることができるかということです。首都圏は完全に汚染してます。幸いなことに名古屋から西は汚染は起きていません。例えば大阪湾に放射性物質の、処理施設或いは保管施設を造るということになったらみなさん、賛成しますか?反対しますか?環境の分野では not in my back yard.家の裏の庭に作るのは嫌だよ、とうのがあるんですね。能勢のダイオキシンが正しくそうでした。それと同じことが今起こっています。さあ我々は関西人として何ができる。正しくそのためのシンポジウムだと思うんですけれども、そういうことを改めて感じました。

時田氏:ありがとうございます。では山田さん。

山田さん:先ほど山崎先生のお話を伺ってて、この事故の影響というのは、大変広い範囲で起こっている、ということを改めて正直びっくりして聞いておりました。それと同時に今山崎先生が仰ったことと全く一緒のことなんですが、ひとり一人が自分はどう立ち向かえるのか、というのがもの凄く難しい問題で、私は幸い歳を取っていたから、こういう呼びかけをすることが出来たけれども 若い人だったら何ができる、自分が若かったら何ができるのだろうか、或いは先ほど仰ったように関西人だったら何ができるのかという風に考えると、もの凄く難しい問題を提起されてしまう。つまりひとり一人がどう生きるのかということを相当自分の問題として真剣に考えないといけない、という事態が 或いはそういう機会をこの事故がくれたんだという風なそういう捉え方をする必要がありそうな気がします。この点に付いては、もうちょっといろんな議論があると思いますが、後ほどもし機会があったら議論したいと思います。

時田さん:ありがとうございます。では原さんお願いします。

原さん:今回の問題は、僕自身も今回問題が起きる前原発に対しては、正直無関心でした。なんだか、やばそうだなってことは感じてはいましたけど 正直無関心でした。今回の問題を実はですね、長野県内のある方から、長野からこれからのエネルギー問題を考えてゆく上で、呼びかけ人として脱原発というものに名を列ねてくれないかと、長野県内の有識者とか有名人にも呼びかけを始めているんだと言われた時にですね、お断りしたんですね、先方は非常に意外だって言いました。行動隊の広報活動していることも知ってましたから、二つ返事でそれならばって言うふうに思ってじゃないかと思うんですけれども、丁重にお断りさせて頂きました。個人的な考えを言わせて頂ければ、原発は必要無いと思っています。少しでも無くす方向に行かなければ、未来は無いと思っています。ただ、僕は今回の問題を原発だけの問題に矮小化することが一番学びが少ないでは無いかと思っています。脱原発の前に脱依存体質、何か政府が何かやってくれんじゃないかと、なんとなく生きていても、なんとかなるんじゃないかという様な、自分の頭を使わなくても日本って平和なままだしっていうような、そういう依存する体質からひとり一人が抜け出して行く。それ無しに、脱原発と言っても虚しいなっていうのが僕自身の考え方です。いみじくも山田さん仰って下さいましたけど、本当にこれを機会に生き方を問い直して、自ら判断してゆくというきっかけにしない限りは、僕は尊い犠牲者がうかばれないんじゃないかという風に思っております。

時田氏:ありがとうございます。山下さんお願いします。

山下さん:あまり大したことは言えないんですが、自分が支援活動で直接現地に行くことに対して、いろんな支援のチョイスがあったと思うんですね。例えば僕は専門が物理ですので、多少は放射線の知識も持ち合わせていたので、そちら方面で活動することもできたでしょうし、本学でも津波の高さの調査に入った専門研究室がありますし、放射線濃度の検出に行ったチーム、例えば「鈴蘭」さんなんかはそれで行っているんですけど、そういう選択肢があったわけです。なのですけど、今自分が、現在の支援活動の形を取っているというのは、特に理由があるわけでは無くて、自分は初めに目に付いたものをずっとやっているに過ぎないという風に自分では思っていて、それは他の方も同じでは無いかと勝手に解釈しているわけなんですけれども、結局そのなんでもかんでも出来るわけでは無いんですけど、とにかく何かやらなければいけなくて その選択というのは目に付いたところからやればいいと、それがそれぞれの役割分担になるんじゃないかという風に思います。

時田氏:ありがとうございます。それではですね、何か講演者の方々お互いに質問等ございますか

山崎教授:じゃぁ

時田氏:では 山崎先生

山崎教授:行動隊の方っていうのは それぞれ専門の分野の方揃っていると思いまして、私は、放射能は少しは知ってるつもりですけど 原子炉そのものについては、少しは勉強をしたことはありますが、専門では無いんで。
東京電力は今敷地の外側に防護壁を作ろうと言ってますよね。伝え聞くと80メートルぐらい深い防護壁ということで、あの話しを聞いた時に素人ながらにあれはもう原子炉の底が抜けてるなという凄い想像をしたんですけれども、その後何人かの方と話していたらやっぱり「そうとちゃうか」という話しが出てきました。その辺のところ
率直なところ専門的な立場から見てどうなんでしょう。私は環境放射能やってますので、やはり底が抜けてるとなるとですね、地下水の汚染ということが非常にシビアな話題になってくると思っています。今はそれどころでは
無いかも知れないですよね。先ほどご説明にもありましたけれども、だけども将来的に考えてそういう問題もやっぱり環境、新たな環境への放射能拡散ということになるんで、非常に気にしているところです。
もし何か情報がありましたら、是非

山田さん:私共、実は必ずしも原子力の専門家ということで仕事をしていることでは無くて、技術的な内容について特別に提案をするというには、情報が決して充分であるとは思っていません。ただ事故の直後に、電源が喪失したというところからすれば、もう燃料が溶けてるってことは自明のことだし、その結果として格納容器の底まで抜けちゃってることは当然のことだ、これは説明の余地は無いし専門家でなくても誰でも、ちょっと原子炉のことを知ってる者にとっては当たり前という風には考えています。その結果として今仰っている地下水だとか、その下にあるコンクリートの層に水が溜まっているわけですが、コンクリートというのは、本質的に水を通す物質です。防水処置が完全にされていない限り、コンクリートは水を通す物質です。川の様に流れるように通しはしませんが、セメントには防水セメントっていうのがあるのをご存知の方多いと思うんですが、コンクリートは水を通すものでございますので、地下水まで全部含めて汚染されているっていうのは、専門家であるかどうかは別として、技術屋なら誰でも分かることだという風に思います。

時田氏:ありがとうございます。私がちょっと原さんにお伺いしたいのですけれども、福島に行かれていてこの事故の後に避難すべきだとか、科学的には安全だからという議論があって、現地に居る人に選択肢が与えられていないという感覚を凄く持つんですが、避難したくてもできない人は勿論沢山おられるし、そういう当事者で無い人が行う議論と現地の被災されてる方々の思いの違いっていうのがあるんじゃないかと、気になっているんですがそういうお話についてちょっと伺おうと思います。

原さん:ありがとうございます。とてもいいこと質問して頂いたなと思っていて、僕自身も福島に関わろうと決めた時に これはちょっと覚悟がいるなと思いました。というのは勿論頑張れなんてことは当然言えないですし、あと現実に僕自身は原発に関する知識、放射能に対する知識が殆ど皆無の状態だったんですけれども、原発の恐さ、放射能の恐さを知ってる方程やっぱり直ぐに出ろ、というような言い方をしてました。それに対して勿論僕自身は、分からないですから 出るとも出るなとも言えないんで、もし出ろという声が多数なんであれば、出たくても出られない人に対して自分はどのような対応ができるかということだけを考えようと、いう風なスタンスで接してきたんですけれども そのスタンスの中で感じたことというのは、特に小さい子供を抱えてらっしゃるお母さんというのは本当に二重三重に苦しんでるっていう現状ですね。つまり出られるものなら直ぐ出たいよと、でも外に親戚がいるわけでも無いし かといってうちの市町村では受け入れはしてると、こういう施設だってあるんだからって言いますけど、じゃぁ大好きな古里を出て 全く知らないところで暮らすストレスと、日々大変だけれどもそれでも住み慣れた所にいる、放射能を浴びてるんじゃないかと思い続けてるんじゃないかというストレスと、単純にどっちがどっちって言えないんですよね。それぞれね、どうして二重、三重の苦しみになるかっていうと、既にお母さんは小さい子を抱えて自分の判断はどうなんだろうか日々凄い葛藤の中にあるわけですよ。でも出られないという現状の中で、周りから半ば責められる状況で、どうしてあんたとこはちっちゃい子が居るのに出てこないんだ、子供の未来を考えているのかみたいなことを言われることで更に傷つく、僕はそれは止めましょうと、最終的にやっぱりそれはその人の判断なんだと、僕はそこなんですね。今回の活動、山田さんに賛同したのは、なにがしかの方法にしてしまうことだけは絶対にしたくないなということ。後はですね、避難したらしたで、古里を捨てたとか裏切ったとか言われると福島の方は、居ても地獄出ても地獄、といった話しをいくらでも聞くんですね。ですからこの場でどうお伝えしていいのか分からないんですけど、できればそういう状況にあるということだけでもね、関西の方々に知って頂ければ、遠くに居るから関西安全だから早く来いよと言うことは、簡単ですけれども言う前に一回考えて実は一番苦しんでいるのは福島の人達なんだって当たり前のことに思いをはせて頂きたいっていうのが、僕の思いです。

時田氏:ありがとうございます。運営が上手くいっておりませんで、時間がどんどん経ってしまいまして 申し訳ありませんが、質問多数会場から頂きまして、ありがとうございます。全部をご紹介するわけには参りませんが、全て講演者の方にお回しして、それでお答え頂いたものを、ウェブ等で公表するようにします。幾つか選ばせて頂いたものをちょっとご紹介させて頂いて、私の方から質問をさせて頂きます。
大阪府の山本さん、山崎先生にご質問ですが、「東日本大震災における瓦礫の撤去について、一部を大阪府の処理施設にて処理する案があり、その件について大阪府民から問い合わせを受けるが、安全性上問題は無いかという確認をしたい。」

山崎教授:昨日ですか、今日ですか大臣が首になりましたね。大臣でもあの程度の知識しか無いわけです。オバケ屋敷現象、オバケ屋敷って暗いから恐いんですよね。分からないから恐いんです。あれ明るかったら、どうってこと無いんですけどね。今の放射能に関する、或いは放射線に関することはそういうことがあると思うんですよね。リスク、我々が生きている上でのリスクというのは凄く沢山あります。例えば公的に発表されている交通事故の死亡者っていうのはだいたい5000人ぐらいです。これ24時間以内に死んだデータです。警察に聞いても教えてくれないんですけれども、交通事故で死んだ人ってどれくらいいるのかっていうと多分8000人ぐらいだと思います。一年間で、24時間以内で死んだ人が公表されているんですよね。例えば25時間目で死んだ人は公表されていないんですね。何れにしても1億3千万内の毎年、5千人から6千人、7千人死んでるわけですよね。ですけれども我々は トヨタや日産に車を作るなという要求はしないですよね。これはリスクと利便性とをやはり、頭の中で天秤にかけてやってるわけです。車の利便性というのを我々は認めているから、その位の死者は止むを得ないというのは凄く不謹慎な言い方ですけれども、そういう社会的な認知が行われているわけですね。放射能に付いても全く同じです。時間が無かったので、凄く急いだ説明をさせて頂きましたけれども 決して、例えば低線量の放射線被曝について未だメカニズムとして分かって無いことはたくさんありますけれども、少なくとも疫学的に言えば例えば1ミリシーベルトだとだいたい一万人に一人生涯で死ぬ確率が高くなるっていうことですね。毎年1ミリシーベルト被曝するとですね。癌になる方っていうのは、だいたい今男性の場合は40%です。1万人に4000人は癌で亡くなるわけですね。それが4001名になるんですね。一人増えるということはね。こういう議論を始めちゃうとそれでも困るという議論も出てくるんですが、ですけれどもそういうことがあります。ですから管理された状態で、私は大阪府も汚染した廃棄物の処理というのは、引き受けるべきだと思います。我々が原子力発電の電気で、実際に凄く豊かな生活を送っているんですね。ですからそういう意味でも、リスクの一部はやはり大阪府民としても、引き受けるべきだと 私は個人的には考えています。後は程度問題ですよね。どの程度まで引き受けるか。どの程度の汚染したものならOKだ。これは住民の方の感情と行政の裁量によって決まることだと思いますけれども、拒否するということは、やはり僕は問題があるかなと思います。

時田氏:ありがとうございます。次も山崎先生へのご質問なんですけれども 藤川さま「屋根や家の汚染除去をしても、他から飛んでくるものでまた汚染されるのでは無いか、一斉に福島県全体で除去作業をしなければ意味が
無いのでは」というご質問です。

山崎教授:その通りだと思います。今東日本を汚染した基本的な原因というのは、これも発表させて貰いましたけど、3月の15,16日と22,23日に、降った雨で落ちたものが殆どです。原発からもそれ以後全然出ていないわけではありません。ですけど、それ以後に出ている放射性物質で、汚染がかなりドラスティックに酷くなったという例はないと思うんです。ただ問題はですね、今取りあえずは地面に落ちたものを測っているわけです。私もそうです。次の段階としてですね、それがどこかに動いているわけですね。例えば東京都が一番代表になるんですが、東京都は、コンクリート、アスファルトで覆われているような街です。そうすると東京都の場合は、降った放射性物質が今どこに行ってるかというと、浄水場、下水場の汚泥に移っています。この前も東京都の上下水局の方とお話しをしていたんですけど、汚泥が一日に20万トン出てるんですね。その20万トンの汚泥が今現状では殆ど汚染されているはずです。データもホームページに公開されていますので、また見てください。毎日20万トンですね、それがどんどん、どんどん溜まってるわけです。おそらくこういう状況が数年間続くと思われます。長崎の原爆の例を出しましたけれども、あの場合も黒い雨が降った周辺というのはだいたい3年から5年ぐらいは流出が続いていたと考えられます。そういうことを考えますと今ご指摘のように、一旦降った物の移動に伴う二次汚染というのは、これは当然起こり得ます。ですから、福島県だけじゃないですけれども、ある地域全体をいっきに、除染しない限りは一旦除染しても、また次に汚染されるということも当然考えられますね。ただ問題は先ほども言いましたけれども、どのレベルまで考えるかということでうすよね。完全に以前の状態迄、バックグラウンドの状態迄戻すのか、それともある受け入れられるレベルのところまででいいのか、というそういう判断をしないといけないと思っています。実はそのことが非常に問題なのと、それとこれも先ほどの話しに戻るんですけれども、除染したとしてその除染した、放射性物質を含んだ物質をどこへ処理するか、という問題ですね。この問題が非常に大きい。小学校の例を出しましたけれども、校庭の泥を5㎝削っただけでも、あのプール、50メートルプール3つ分ぐらいの穴が必要なんですよね。それを福島県全体でやった時にどうすんだという技術的な問題があると思います。寧ろこの方が技術的な問題が非常に大きな問題だと思います。

時田氏:ありがとうございます。三浦さまから山崎先生にですが「山崎先生の本日ご報告頂いたデータは、配布して頂けないのでしょうか」ということですけれども、スライド頂いておりますけれどもそれは、ウェブ等で公開するのは宜しいでしょうか?

山崎教授:我々の研究というのは基本的にみなさんの税金から頂いて、それで研究させて頂いておりますので、
基本的には公開する義務があると思います。今回もいろんなところでですね、論文書くまでは、発表できないという研究者の方もいるんですが 私はできるだけアップデート、データはみなさんに公開すべきだと思っているので、少なくとも隠すべきことは無いですので、今日のデータは公開して頂いて結構です。

時田氏:ありがとうございます。研究会のホームページ等でですね、今日の質問への回答も含めまして スライドは後からでも見て頂けるように致します。それでは次 山下さんへですが、「なぜ、気仙沼に決まったのでしょうか?」というご質問ですが。

山下さん:最初に気仙沼の大島に決まったのは、代表が支援活動に行った際に知り合った方の紹介で、大島に決まりました。それでそれを継続して同じ大島に行っているということです。

時田氏:ありがとうございます。後、「東北から避難されている方で大阪へ来られている方々への支援、関西では(大阪が)数が一番多いということだと思うんですけれども、される予定等はございますか」という質問ですけれども

山下さん:既に吹田市から教育支援のボランティアの要請というのがありまして、そういう方 そういうニーズがあるということは承知しております。我々の団体として、そういうことをやるという事に関しては、未だその活動に関しては検討していません。問題は人の数の確保と、金銭的な問題もありますので どういう活動をするかに付いては、内部で検討する必要がありまして、現在はまだ検討していない。

時田氏:ありがとうございます。ボランティアセンターが閉鎖されるというお話しに関連しまして、その理由を聞きたいという質問なんですが

山下さん:正確に把握しているわけではないので 推測でお答えするしかないのですが、ボランティアセンターの方によると、ボランティアの方に仕事を出す時には現地の方から依頼があった仕事しか出せないんですよね。種類もどういう種類の仕事を出すかというと、各ボランティアセンターで決めていますので、出す仕事の中で要望があった仕事しか出せないので、該当する仕事が無くなる 或いは殆ど無くなってしまえば、ボランティアセンターは順次閉鎖してゆくんだろという風に考えています。

時田氏:ありがとうございます。「一般人ですが、大島の観光ボランティアに参加したい、日時の設定が決まれば下記ご連絡下さい。」心強いコメントも頂いております。ACTIONで検索すれば出てきますよね。ですので パソコン等お使いの方は是非一度ACTIONのホームページにアクセスして頂いて、お手伝い頂ける方は是非、山下君へACTIONの人へ連絡を取って頂ければと思います。ありがとうございます。

山下さん:お願いします。

時田氏:それから原さんへなんですが、福島のことをリアルに説明して頂いて、とても心に響きました うちわの話し凄いと思いました。ということで、非常に明解で心に響くお話しぶりだったので、質問は無いんですけれども、こういう感想を

原さん:ありがとうございます。ではこちらからお願いが、僕伝え忘れちゃったかなと思うんですけれども、実は今日も白いうちわを持ってきてあります。受付のところにお願いして置いてありますので、これも、全員とかなんとしても書いてくださいということではなく、気持ちを届けたいという方は是非そこで書いていって頂きたいと思います。いつも山田さんというか 東京の方でね、会議でみなさんにお渡ししてるんで、今日書いて頂いた分と以前に書いて頂いた分が幾らか届いていますので、それはもう関西支部にお預けして届けて頂くとお願いしたいと思っております。

時田さん:ではお帰りの際にはですね、うちわに一筆書いて頂ければと思います。山田さんへのご質問ですけれども、「なぜ、日本の大手メディアは原発行動隊の活動を取り上げないのでしょうか」というご質問です。

山田さん:これはメディアに聞いて頂きたい。日本のメディアと例えばアメリカのメディアを比べてみるっていうのはウェブ開いてみれば直ぐ分かりますね。原発直後にニューヨークタイムズと日本経済新聞を比べてみたら直ぐ分かると思いますが、ニューヨークタイムズは直ちに先ほど話しにあった、メルトダウンは全部報道してました。日本の報道は政府の発表しか報道してないんですね。全てと言うと語弊がありますが、多くのメディアは世論の大勢になるになる、或いは公に認められないことを殆ど報道しない。残念ながら、そういう意味で非常に特殊で、世界から見ると非常に特殊で、私のところに来る海外のメディアが、何故日本のメディアは取り上げないのかという質問をしてきます。それが実態だということしか、私にはこれ以上のことは分かりません。

山崎教授:正しくその通りだと思うのですが、ちょっとメディアの肩を持つわけじゃありませんけど、私のところも関西のテレビ局の方は一社もコンタクトありませんでしたけど、在京の方は全テレビ局私オファーを受けまして、断ったのが大部分ですけれども、週刊誌とか新聞とか随分取材を受けました。海外と日本の一番難しいところはですね、やはり風評の問題なんですね。私も実は発表できないデータをある程度持っています。それはやはりですね、今それを出してしまうと いろいろと困ってしまう部分があるということですね。この判断をどこでするのかっていう、さっきの僕は全部発表するべきだって言いました。それとちょっと矛盾するような言い方ですけれども、全部開けっぴろげに発表してしまうっていうことが、本当にいいのかって問題があるんですね。多分メディアも自主規制がその辺でかかってるんだと思います。ちょっと自主規制し過ぎだと僕も思います、日本のメディアはですね。でもやはり、風評の問題をどう解決できるのかというのが出てこないとですね、自由な報道ってのは、多分出来ないんじゃないかなってそういう印象を持っています。

時田氏:ありがとうございます。

山田さん:この問題を議論し出すと長いですね。

時田氏:私共の研究会でもコミュニケーションを研究しておられる先生が、参加して頂いているんですけれども、その問題に付いては継続的にいろいろ議論してゆきたいと考えております。
もう一件山田さんにですが、爆発した福島第一と今のところ異常が見られない第二の違いはなんなのでしょうか、分かれば教えて頂けませんかというご質問です。

山田さん:申し訳ありません。その辺についての詳しい技術的知識、私にはございません。

時田氏:山崎先生は何か、お聞きになられたことは

山崎教授:正しく第一原発は1号炉から4号炉まで問題になっていて、5号炉6号炉は、一応は安定的に止まっている状況だと思いますけれども、第二原発は基本的にそういう大きなトラブルが無かったというだけの話しだと思います。必ずしも無傷なわけでは無いと思いますね。無傷じゃないんですけれども、ただ水素爆発とか、第一原発で起こったような、ああゆうトラブルが起きてなかったというそういう違いだけだと思います。

時田氏:第二の方は要するに 全ての電源を喪失する事態には至らなかったということ

山田さん:第一と第二の違い?

時田氏:はい 第一と第二の違いです。

山田さん:すいませんちょっと 1号炉と2号炉と勘違いしちゃって、第一原発は電源が完全に喪失してしまったということで、冷すことができなくなってしまったということが全ての原因。原子炉っていうのは、ふたつのことがあって、ひとつは所謂臨界と称しますけれども反応がずっと続いて熱を出し続けるということをやってるのが発電ですけれども、それを止める為に制御棒を炉内に挿入して、中性子を吸収して連鎖反応が起こらないようにするという、そういうことをすると反応が止まる。その状態は電源があろうが無かろうが確保できるように設計されています。ところがその後核分裂によって精製した放射性物質が、自分で勝手に崩壊してゆく。これが所謂飛散している放射能が出てると言ってるものの原因ですが、この崩壊自身は制御することができない、絶対に制御することはできないので 冷す以外、それを冷して事故が起こらないようにする以外手が無い。その冷すのに電源がどうしても要る。水を回さないと冷せないから電源が要る。その電源が供給できなくなったというのが第一原発で、第二原発は水(電源)があったから、ともかく冷し続けれたので、燃料が溶けるとかそういう事故が起こらないですんだというそれだけのことです。それだけ大きなことです。

時田氏:ありがとうございます。もう一件山田さんにですが、「放射線漏れを完全に防ぐ、仮建屋、ではなく本式の建屋が完成するのは、何年後ぐらいでしょうか」というご質問です。仮建屋ではなくて放射能漏れを防ぐ、今テントみたいなものを作ろうとしてますが、そういう物では無くて本式の完全に長期間耐え得るものを作ることができるのは、何年後ぐらいでしょうか

山田さん:これも実は私の知っている限りでは、どういうものを作ったら完全にカバーできるのかということについて、未だ計画は全く出来ていない。これからやるというのが、少なくとも8月17日のロードマップの現状です。これから考えます。という風に書いてある。これに付いて何かを提案する程、建設の能力を持っているとは思えませんので、未だ未だ大変だよってことしか分からない。

時田氏:ありがとうございます。ではだいぶ時間も押してますので、これで本日の公開講演会は終了とさせて頂きます。本日はどうもありがとうございました。

(校正 北村一夫)
以上