佐々木洋/行動隊に参加した理由

 

略歴
昭和34年福島県郡山市生まれ、高校卒業まで郡山市に生活する。郡山市では、校庭の除染で報道された郡山市立薫小学校の辻向かいの郡山第一中学校に通学する。大学入学を機に、郡山市を離れ、埼玉県で大学時代、東京都町田市で大学院時代を経て、昭和63年に近畿大学に奉職以来、大阪府在住。

平成21年2月末に右脳内出血で倒れてから、左片麻痺の後遺症を抱え、現在も週一のリハビリ生活ではあるが、平成21年9月に近畿大学理工学部に復職し、あの3月11日は、卒業生を送り出す準備をすべく研究棟の講師室で実験データの整理をしていた。

隣の研究室から地震だという声が上がるとともに研究棟はゆっくりとした横揺れしていた。阪神淡路大震災当時は東大阪に住んでいたが、あの揺れと比較すれば,遙かに小さいから実験棟に被害があるとは思えなかったが、長く続く揺れであったので、実験室の無事を確認して、ネット情報を確認したら、大震災の情報が、郡山市には,母親と弟の家族が住んでおり、携帯メールで無事が確認できた。当日、上の息子と妻は北海道で大学入学の宿探しに行っており、地震について携帯に電話してきて、無事を確認した。当時の様子はtwitterでのつぶやきが記録されているが、福島の母親からのメールが生々しく残されており、政府や福島県の対応にもどかしさを感じていたことがわかる。

福島原発暴発阻止行動隊のことを知ったのは今も聞いている MBSラジオの番組でした。
行動隊からのメールの最も早い日付は2011年5月4日になっているから、大震災以来、大学卒業式当日に学生さんの募金に応じることしかできなかった私にとって、年齢的にも現在の体調からも隊員としての応募は不可能であるが、故郷への支援の意思表明として、賛同のメールを送ったのは連休始めであったようだ。その後、母親に頼まれて、線量計をネット通販で購入し送ったのが、通販の記録では5月27日と記録されている。

学生時代、応用化学系の教育を受けた私にとって、核分裂反応や放射線の話題は身近なものであり、半減期は,化学反応速度論には代表的な一次反応として、教えるには欠かせない分野でもある。大学時代の同級生の何人かは原発関連企業に勤務しているが、まだまだ不明なことが多い。崩壊熱の存在は全く知らなかった。

教鞭を取る立場上、個人の体験をバイアスかけず、後進に伝えることが責務だと思う。その意味でも、福島原発行動隊の活動を、本籍が福島県郡山市の二人の息子および近畿大学理工学部応用化学科に学ぶ学生諸氏に伝えるために賛同者の立場ではあるが応募した次第である。原発自体については、埼玉大学工学部応用化学科時代に槌田敦先生に資源物理学として、エントロピーの立場からの考察方法を学んだ。その考え方は、現在の講義にも反映させている。